華やかな宴の夜のこと。

王にけしかけられて踊りに誘おうと思って、彼女の姿が見当たらないことに気付いた。
誰もいないホールで彼女を見つけて、そして――目の前でその子は消えた。



オレは感傷的なタチってわけじゃない。その夜に限って彼女の記憶で心が酷く乱されたのは、きっと久しぶりに旅の仲間で集まって思い出話にふけったからだろう。それに、ひょっとしたら、夢占い師の館に満ちる夢想の匂いに惑わされたのかもしれない。
なにしろ気分がのぼせて仕方ないから、みんなが寝静まった夜更けに一人で館を出て、星明りの中に座ってぼんやりしていた。そのうち高揚は静まったけど、今度は静まりすぎて泣きたくなるほど陰気な気分になった。どうしかしちまってる。大丈夫かよ、我ながら。
とはいえ、無理にでも寝てしまいさえすれば。朝になって目が覚めたときには、きっと元気になってるだろう。まったく夜のチカラは本当に危険だ。あーあ、感傷ついでに外で寝よう、なんかそんな気分だし。

――そう思って寝転んで夜空を見上げたとき、すぐ真後ろにヒトが立っていたことを初めて知った。
心臓が止まった気がした。心底驚いて、思わず変な声が出た。月の光を背に受けてこっちを見下ろしていたのは、月の光みたいな髪をした男だった。テリー、いつからそこにいたんだ?なんで気付かなかったんだろう。

「なんだよお前ッ……なんなんだよ。誰だよ!」
オレは平静を失って、よく分からないことを言ってしまった。
「よくもまあ、そんな隙だらけでいられるな。オレがその気だったら死んでたぜ、お前」と、テリーも意図のよく分からないことを言った。「なにしてるんだ」
「別に、なにも。落ち着かなくて散歩しに来ただけ」
相手は黙ってこちらをじっと見ている。なんとなく不気味だった。
「お前こそどうかした?オレは、……思い出したらなんか憂鬱になっちまったんだ――バーバラのこと。それで風に当たろうと思って。別にたいしたことないけど、そういうときあるだろ。変なスイッチ入ってさ。…」
「饒舌だな」

――たった一言。
その言葉に、なんだかがっかりした。むしろいら立ちさえ感じた。普段の彼はこんなじゃない。確かに鈍感ではあるが、ここぞってところでは外さない。
「弱ってんの。悪いけど一人にさせてくれないか」とオレはつっけんどんに言った。
しかし相手は「ここにいる」とだけ返事した。正直なところ、なんだか面倒臭いなと思った。
「……ああそう。じゃあ、どうせなら慰めてよ」
すると、テリーはそのままオレの上に屈み込み――抱いてやろうか、と囁いた。彼の様子に耐え難い違和感を覚えた。


遠慮しとく、という言葉は被さってきたテリーの唇に阻まれた。
触れた瞬間に全身がぞっとしたのは、主導権を取られたことを悟って本能的に恐怖したためでもあったし、あるいは単純に相手のキスが上手かったのもある。それは、しかも、否応なしにこちらの意識を麻痺させるほど巧みだったにも関わらず、相手のどんな感情も伝えてこなかった。激しく扇り立てると同時に心を凍てつかせるような――いったい、どうやったらこんなふうにできるんだろうか。そもそもテリーはキスが好きだ。だけどいつもは幸せを分かち合うように楽しげなキスをする。それは情熱の伝達でもただの気まぐれの触れ合いでも同じこと。じゃあこれは、どういうつもりだ?ふと、こいつ女のひととするときはこんな感じになるんだろうか、と思ったりした。
それから唇が放されて、――オレを見下ろす冷たい色の眼にはずいぶんみっともない表情が映っていたことだろう。

「情けない顔だな」と、テリーはにこりともせずに言った。
「弱ってんだから。大目に見てよ」
そう言って辛うじて苦笑いして見せたものの、テリーはなにも答えない。それでオレはなにか言いようのない不安に襲われた。正直なところ、彼がそこにいることさえ恐ろしく感じられた。能面みたいな顔で、心の内を微塵も読ませない。だいたい、まともな思考が働いているとも思われない。
オレの喉元に触れている彼の指先が、次の瞬間にも力任せに首を締め付けてくるんじゃないか。そう考えて、ひどく動揺した。
――拒否しないと。
思った刹那、無表情だったテリーが笑った。唇だけで。
オレは全身の毛が逆立った。正気の沙汰じゃない。


「やめてくれ。…」
はっきり言い切って、オレは相手を押し退け身体を起こした。
「怖いよ。ちっとも慰められやしない」
ため息をついて相手を見やったら――そこにはいつもの屈託無げなテリーがいる。
「なにもしてないだろ。キスしただけで」と、彼は肩をすくめた。
「でも怖いよ。もしあれで優しくしたつもりだったんなら、言っとくけど大間違いだからな」
「まあ、そんなに優しかなかったかもしれないが」
「いや怖いよ。お前……お前がするほうのとき、いつもあんななの?」
「何回コワイコワイ言うんだ。それに、嫌がられたらしない」
……嫌がらないやつもいるんだ、って思わず想像しかけて、慌ててやめた。
「ちょっとはオレを見習えっての。だいたいなんだよあのキス」

なじったつもりだったんだけど。
テリーは首を傾げて不思議そうな表情をした。それで、いつもと全然違ったろ、とは言えなかった。まさか無自覚なんだろうか。



うすむらさきの瞳の奥に、不意に真っ暗な洞を覗いた気がした。




おしまい