サンマリーノで、港の居酒屋に立ち寄ったときのことだ。
 愛想よく出迎えてくれた給仕の女の子が、テリーの顔を見るなり「あ!」と叫んで、手にしていたグラスを落っことした。ぎょっとしているオレたちの前で、彼女は割れたグラスを片しながら、しどろもどろ謝罪の言葉を述べようとした。しかし、なにしろばかに動揺しているもんで、ガラスの鋭い破片で指を切ってしまったくらいだった。血を見ていっそうおろおろしている彼女に、とにかくオレがホイミを唱えているところへ、カウンタの奥から店主が駆け寄ってきた。
「大変、マスター」と彼女は言った。
「なに言ってるんだよ、ビビアンちゃん……。ああお客さん、どうもすみません。こちらで片付けますから」
「違うの。彼よ!」と、ビビアンは頬を赤らめて興奮ぎみに叫んだ。「あのー、青い服のあなた。あなたはあのときわたしを助けてくれた、さすらいの剣士さまではないですか?」
 オレとバーバラとアモスは顔を見合わせ、おのおの首を横にふり、それからいっせいにテリーの顔を見た。後ろのほうで我関せずと澄ましていたテリーは、急に自分に話を向けられたものだから、驚いて目をぱちぱちさせた。それから「そんなこともあったかな……」と言葉を濁してちょっと困った顔をした。きっと半分は相手のことを覚えていない焦りで、あと半分は照れ隠しだったに違いない。だけどビビアンのほうじゃ、そんなことは気にも留めないらしかった。
「嬉しい! また会えるなんて思ってもなかったのに。今日はぜひゆっくり飲んでってくださいね、お友達もいっしょに。わたし、奢っちゃいますから!」
 店主はにこにこしながら会釈した。
「どうも失礼しました。席へどうぞ。いやねぇ、彼女、いつだったか男前の剣士さんが魔物から救ってくれたとか言って、それからなにかといえばその話ばっかりだったもんで……まさか、うちの店にいらっしゃるとは。偶然ってあるもんですねえ。……ほらビビアンちゃん、ちゃんと仕事してくれ」

 みんながカウンタ席に陣取ると、ビビアンは飲みものを取りにいった。いちばん右端に座ったテリーの隣で、オレはさっそく澄まし顔を冷やかしてみた。
「オトコマエの剣士さまだってさ。おまえもちゃんと正義の味方してたんだな」
「かわいい子だから助けたんじゃないの?」とバーバラ。
「どうだろう。覚えてないが否定はできないな」と、ふざけてんだか本気なんだか、テリーは真顔で答えた。
 なに言ってんだ、とハッサンはけらけら笑いとばした。「ヘッ、腹立つヤツめ。でもまあ、もし助けたのがオレだったら彼女もああまで喜んだか怪しいもんだけどよ! 結局、二枚目にみんな持ってかれちまうんだ」
「そんなことないよ。ハッサンの心は誰より二枚目だよ」
 おそらくフォローのつもりだろうバーバラの無邪気な言葉は、つまり裏返せば、顔のほうはどう転んでも二枚目じゃないってことだろか? とオレはこっそり思ったりした。
 ほどなくしてビビアンがみんなの飲みものを運んできた。彼女はカウンタのはしっこ、テリーの横にスツールを置いて腰かけると、そのまま彼に話しかけた。ほかのみんなは、ふたりに構わずおしゃべりを始めた。もちろんテリーではなくビビアンのほうに気を利かせてやっているのだ。初めのうちはオレもみんなの輪に加わっていたけれど、反対側のふたりの会話がちらちら聞こえてくると──どうも気になってしかたがない。まぁいいや、こっそり聞いちゃえ、と勝手に開き直って、無礼ながらオレはテリーとビビアンの声に意識を向けてみた。
「どうしてさすらいの旅なんてしてるの? みんなとは昔から親しかったの?」とビビアンが訊ねている。
「いいや。こいつらとは、あんたと会ったあとで知りあった。旅してるのは、──」
 言いかけて、テリーはほんの少し躊躇した。そして『魔王を退治しに』だなんて打ちあける必要もないと判断したのだろう、「とどまってるのが嫌いだから」と続けた。さすがにそれはちょっとどうかと思ったけど、ビビアンは軽やかな声で笑っただけだった。明かしたくないことをそのまま受け容れてくれる、親切な笑いかただ。
「じゃあ、みんなでぞろぞろ放浪してるんだ。でも街の外はずいぶん危険でしょ? そりゃもちろんテリーはすごく強いし、そっちの人たちも強そうだけど。──女の子には危なくない?」
「みんな強いさ」
「へえ。なんか、見た目にはずいぶん変わった集団ね。ちっちゃい子供もいるし(きっとチャモロのことだ)、それにあの金髪のひと。あんなキレイなヒト、見たことないな」
 なにかささやかな疑惑を含んだ言葉だったのかもしれない。しかし気付いてか気付かずか、テリーは小さく笑っただけだった。姉だってことすら明かさないのはちょっと不親切な気もしたけど。
「ずっと旅がらすじゃ仲良しの友達もなかなかできないでしょ。ふるさとが懐かしくなったりはしない?」
「いや、オレは平気なタチだけど」
「…………恋人とかいないの?」
 一瞬の沈黙。
 それは当然のように予想された質問だった。このうえ盗み聞きを続けるなんてまったく下世話の極みだなと思ったものの、残念ながらオレは、ますます熱心に耳をそばだてずにはおられなかった。もっと正直なところ、テリーがどんな顔をしているのか覗いてやりたかったくらいだ。
 カラン、と誰かのグラスの氷が鳴った。
 いるよ、と低い声でテリーが答えた。
「そっかあ。……残念!」と、ビビアンはあらかじめ用意していたかのような明るい調子で笑った。「ね、テリーの恋人ってどんなひとなの?」
「そういう話は苦手なんだが。そっちの連中のほうが盛りあがると思うぜ」
「あなたの話が聞きたいの。ねえ、きれいなひと?」
 ぜんぜん、とテリーはため息混じりに答えた。まあ、キレイという評価が(少なくともテリー自身との相対評価で)レイドック王子にふさわしいとはオレだって思わないが。
「ふうん。かわいいひと?」
「ぜんぜん」
「いろっぽいひと?」
「ぜんぜん」
「おしゃれ?」
「いいや、ヘンな色の服着てる」
 ビビアンは不満そうな声をあげた。はっきり言ってオレのほうはもっと不満だった。机の下でテリーの足を蹴とばしてやりたくなったけど、まあこれからなにかいい感じの褒め言葉が出てくるに違いないと考えなおして我慢したのだった。
「じゃあどんなひとなのよ。ええと、知性的だったりするの?」
「どうかな。理性的ではあるが」
「理性的? ……落ち着いてるってこと?」
「さあ……まァ親切なのは確かだ」
「親切って、保護者じゃないんだから。──つまり甘やかしてくれるひとなんだ? ふふ、テリーって意外と甘えたいタイプなのね。そう言われたらそんな感じもするな。あなた、末っ子なんじゃない?」
「ああ。アネキがいるけど」
 ビビアンはくすくす笑った。
「そう。あーあ、ハンサムでクールだけど恋人には甘えたがる彼氏かあ。いいな。大事にしてあげてね、そのひとのこと。……さてと、長話しちゃった。仕事しないと」

 彼女は立ちあがって飲みものの替えをみんなに訊き、空いたグラスを器用に抱えてカウンタの奥に消えた。その背中を見送ってからテリーのほうを振り返ると、ちょうどため息をついて顔をあげた彼と目があった。オレがにやにや笑いを隠せないでいたものだから、彼は怪訝そうに眉をひそめた。それでオレはつい、言わないでもいいようなことを言ってしまった。
「聞いたか、テリー? 恋人を大事にしろってさ」
 ちょっとの間、テリーはぽかんとしていた。つぎに頬をさっと上気させた。それから顔を歪めて──動揺と含羞と憤懣の入り混ざった、言葉じゃなんとも表し難いような表情を浮かべた。彼は無言のまま、オレのカウンタチェアを後ろにひっくり返した。──ガタン!
 オレは「うわッ」と叫んで派手に転げ、身体を床やらなんやらにしたたか打ちつけた。みんなが驚いてこっちを見ている。隣に座っていたハッサンが、すぐに手を伸ばして助け起こしてくれた。
「大丈夫か? どうしたんだレック、もう酔っぱらったのかよ!」
「いたた……平気。テリーのことからかったら、こかされちゃった」
 オレの答えに、テリー以外のみんなが笑った。
「モテる男は辛いねえ」とハッサン。
「テリーもすみに置けないわね」とミレーユ。やけに嬉しそうだ。
 テリーはなにか不服のあるような顔をしたが、結局、唇を尖らせただけで黙ってしまった。彼からおもしろげな話を聞きだそうと、みんなはしばらく粘った。しかし一向になにも出てこないし、それどころか周りがやんや言うほど本人が不機嫌になるものだから、いい加減で切りあげてまた元の会話に戻ってしまった。みんなの興味が逸れたので、オレはこれ幸いとテリーを占有してやった。相手の眉間のしわなんか恐るるに足らずだ。
「やあ、見る目あるなぁあの子。実は甘えたがりなのバレてたね、テリー」
 言い終わる前に相手の肘がオレの脇腹に、かかとがすねに飛んできたけれど、警戒していたので両方とも寸前でやり過ごしたのだった。
「……ふざけやがって、このバカ。オレがいつどこで誰に甘えたって言うんだ、バカ」
 二回も『バカ』って言われてしまった。テリーは口争いが苦手なのだ。とはいえ、彼は誰に対しても大抵は口論になる前に諦めてしまうので、ちゃんと文句を言い返してみる気になるだけオレには気を許してるってことなのかも知れない。……ともかく、彼の甘えたがりについては即座に複数の事例がオレの脳裏をよぎったものの、さすがに口にしたらただじゃ済まないなと思いなおして、適当にごにょごにょ言ってごまかした。テリーはわざとがましく肩をすくめてみせた。
「そもそもあの子が一人で喋ってただけじゃないか。誰がおまえのことだと言った? ほかにいないとは限らないぜ」
「へーえ、きれいでもかわいくもいろっぽくもないひとが?」
「…………おまえ、最低だな」
 テリーは呆れたようすでそっぽを向いてしまった。
「ごめんごめん、冗談だよ。テリーの口から恋人自慢が聞けるとは思いもしなかったからさ」
「自慢だと? ちぇ、ひとことも褒めちゃいないぜ」
「はは。でもまあ、ちゃんと恋人って認識してくれてたんだな」
「べつに」と、こちらを見ないままテリーはつぶやいた。「……恋人だかなんだかしらんが、そんな肩書きになんの意味があるんだ。属性やら地位やら、熱心に分類して喜んでるやつの気がしれないな」
「たとえば『王子さま』とか、ね?」とオレは笑った。「だけど『恋人』は肩書きじゃないと思うぜ。今この瞬間の関係性を表してるだけだよ。おまえがオレに恋をしてたら、オレはおまえの恋人だ」
 げ、とテリーは露骨に嫌な顔をしてちらと舌を出した。
「気色悪いから二度と言うなよ。うへぇ、レックのそういうところ、まったく理解に苦しむぜ」
「ちなみにオレのほうじゃテリーのこと──」
 やめろったら、とテリーが手刀でオレの頭をペシと殴った。オレはすなおに口を閉じた。そのまま横目で微笑みかけると、相手もつられたように苦笑いを返してくる。かすかに小首を傾ければ、銀の髪が薄紫の瞳にさらりと影を差す。──つくづく、きれいでかわいくていろっぽい(そして容赦のない)恋人だなぁと思う。
 どうせ、背中合わせのハッサンのかげだ。みんなからは見えやしないだろうとたかをくくって、カウンタの上で空のグラスに添えられた相手の小指と自分の小指を重ねてみる。飲みすぎないでよ、と多少の下心をこめてささやいたところへ、カウンタ奥からビビアンが出てきた。彼女の視線は当然のようにまずテリーへ向き、ついでからんだ小指を見つけ、それからなぜかオレの服をまじまじと眺めた。
 あら、とつぶやいて、ビビアンは軽やかな声で笑った。明かしたくないことをそのまま受け容れてくれる、親切な笑いかただった。




おしまい