時空の狭間の世界は、まるで大気さえもひどくひずんでいるかのように息苦しかった。
 気味の悪い植生に覆われた大地には、パーティの誰も見たことのない魔物らが巣食い(しかもべらぼうに手強かった)、人々は荒み混乱していた。昼なお小暗く、しかし夜空は奇妙な赤い光をたたえていつまでもとばりを下ろさず、星はなかった。

 欲望の町のいざこざからようやっと脱出し、湖底に隠された地下道を抜けていくらもしないうちに、はや日が暮れ始めてしまった。定期的に歩む者とてないのだろう傷んで不確かな街道を辿って、がれだらけの乾いた平野を抜けると、道は目の前からまっすぐ森の中へと続いていた。木々の下には一足早く夜が訪れている。
 オレたちはその日の行程を早々に切り上げることに決め、森のまだ深まらない場所で、木立の蔭に野営の支度をした。
 モルガン邸の強欲な主人と顔を突き合わせたところから始まった、まったくうんざりするような一日だった。それでも誰も不平のひとつもこぼさずに笑顔で焚き火を囲んでくれたもので、オレは心底みんなを尊敬したが、さすがに食事が済むとお喋りもせず、さっさと寝に就いてしまった。なにしろ本当に疲れていたのだ。…

 未明ごろ、見張り役がオレまで回ってきた。男ども用のテント(ミレーユとバーバラは馬車だ)から出ると、木立を霞めるように薄く霧が出始めていた。
 明け方になって気温が下がればひどいガスになるかも、と入れ替わりのミレーユが言った。
「気をつけてね。身体を冷やさないように。……なんだかまとわりつくような霧だから」
「ああ、ありがとう。おやすみ」
 ミレーユは馬車に入る手前で振り返って薄闇に沈んだ森の奥に視線をやり、ほんの少し目を細めた。
「おやすみなさい。気をつけて」
 彼女は再び念押ししてから馬車の中に消えた。

 二時間の焚き火守り当番を、オレは旅の記録に費やすことにしていた。いつもの通り一日のできごとをつらつら書きつけて、それから遭遇した魔物の分析に頭を悩ませていると──テントからテリーがあくびしながら出てきた。次の番交代は彼だ。
「眉間にしわが寄ってるぜ」
 オレの顔をしかめ面で眺めて、テリーが言った。そっちこそ、とオレは思った。
「そう? ちょっと記録に悩んでたんだ」
 懐中時計を確認すると三時半。交代時間まではまだ三十分ほどある。
「早いな。まだ寝ててくれてもいいけど」
「まあ、目が覚めちまったから。……しかしずいぶんな霧だな」
 テリーは目を細めて森の奥をちらと見やった(その仕草も風貌も、彼の美しい姉を思い起こさせた)。
「ちょうどいいや。テリー、ちょっとコレ手伝ってよ」
 言いながら書きかけの帳面を開いて相手に見せると、彼は途端に機嫌良さそうになった。魔物の特徴について細かに記載しているところだったからだ。彼の魔物好きはまさしくホンモノで、敵を見極める才能には恐れ入るばかりだ。

「ボーンプリズナーは……二フラムで一掃だったな、問題なし」と、帳面をめくりながらオレは言った。「呪いの鏡は? 斬撃が鏡の表面で滑っちまうんで苦労した」
 もたもたしてる間にモシャスを使われて、えらく手こずったのだ。
「鏡を割る。剣なら、正面から、こう」
 言いながらテリーは突きの身振りをした。
「そうだね。滑らないように、まっすぐか。まあ、ハッサンの正拳突きの方が確実だな。次、メタルライダー。メタル斬り試してみた?」
「ああ、効いたぜ」
「『めたるぎりゆうこう』、と。それに、ザキが当たったってチャモロが言ってた」
「へえ。なんか効かなさそうな見た目だけど」と言って、テリーは首を傾げた。「チャモロ、意外とザキ試すの好きだよな」
 オレはちょっと笑った。パーティ随一の癒しの名手は存外、殺戮家なのだ。
「今度出てきたら、まずザラキ試してもらおう。最後、ラストテンツク。……」
 そこでオレは言い淀んだ。なにしろ、その冗談みたいな外見の魔物相手にオレがやらかした失態が、今日いちばんの危機を招いたからだ。
「『とくぎのまねまねにちゅうい』、だろ」と言いながら、テリーはオレの頭を小突いてきた。「書いとけよ、ほら」
「はいはい。しかしギガデインやり返されるとは思わなかったなあ! 死ぬかと思った」
「普段出し惜しみするくせに、なんであん時に限って迷わずギガデイン使ったんだよ」
「いや、なんかキモかったからさ。あの形状であの色合いであの動きで、しかもあの数。おお、こわ」
「色合いだと?」
 テリーはオレの服をじろっと見て、むしろ気が合うんじゃないのか、とよく分からないことを言った。
「あれも倒しにくかったな。ぶよぶよして、ダメージ与えにくかった。訂正しとくけど、普段は出し惜しみじゃなくて、魔力を温存してんの。いざってときの回復用なんです」
 テリーは鼻で笑った。
「まあどうでもいいが。……テンツクは首を切り落とす。横からスパッとさ」
「皮膚が分厚く垂れてて、首に当たんなくなかった?」
「あいつ、飛んだり跳ねたり動くだろ。その跳ねた瞬間に、頬がめくれて首がちらっと見える」
 ははあ、と感心して、言われた通りを書き留めようとした、その時。
 待て、と小さく叫んで、隣に座っていたテリーはさっと顔を上げた。「なんだ?」と聞き返そうとしたオレの唇を指先で制して、そのまま闇の向こうに意識を凝らしている。
 気付けばせんだってからの霧はいよいよ深まり、今や辺りの木々は濃いもやの中にとっぷり沈んでしまっていた。オレには不穏な気配は読み取れなかったが、テリーの鋭敏な感覚が全幅の信頼を寄せるに値することはよく解っていた。
「ただのガスじゃない」とテリーは呟いた。
 弾かれるように身構えた彼に一瞬遅れて、オレはラミアスをつかみ、立ち上がりざま暗闇に向かってギラを放った。火炎の熱に煽られ付近のもやがかき消えると、赤い閃光を受けて木立の奥に光る瞳、六つ。ほとんど同時にテリーが呼子を吹いた。ピイイイと、陰鬱な夜霧の底に沈んだ森には不釣り合いな鋭い警笛が闇を切り裂いた。




続きます