白紙委任状


 冷たい雨の降る夕べだった。

 不意に雨足が強くなり、人影もほとんどない裏通りの軒先(なにかの商店なのだろう、閉められたよろい戸には「長期休暇中」の貼り紙が揺れている)でオレはぼんやり雨宿りをしていた。眺めるともなく眺めていた通りの向こうから、大きな黒い傘の男が歩いてくる。そのまま通り過ぎるかと思いきや、すぐ隣に立ち止まって傘を閉じてしまった。

 オレはすっかり嫌な気持ちになった。おおかた雨宿りのお喋り相手を求めてるんだろうが、こっちは見知らぬ誰かと時間つぶしの会話なんかしたくなかったのだ。傘があるならとっとと目的地へ行きゃいいのに。

「雨宿りですか」

 こちらの気も知らずに男は声をかけてきた。

「まあ」とオレは目も合わさずに答えた。

 天気の話か、あるいはそれに類する非生産的な会話が続くに違いないと思ったが、相手はそれきり口をつぐんでいる。……ただ黙っているなら良かったが、じっとこちらを見つめているのだ。ぞっとして腰の剣に手をやり、さっと彼のほうを振り向くと、男は両手を肩まで上げて「おお、こわいこわい」と言った。

 オレはすぐにその場を去るつもりだった。だが、相手が黒い山高帽をかぶっているのを見たとたん、なぜかその気が失せてしまった。

「日も暮れるというのに、今さら雨宿りですか」

 男はさっきと同じことを訊ね、オレもまた「まあ」とだけ答えた。

「君にその気があるなら、今晩のベッドと食事と手間賃を提供できますが」

 オレはため息をついて、剣の柄から手を離した。

 別に他人から施しを受けないとやっていけないわけじゃない。町の外に出てめぼしい魔物を討伐すれば、なにかしら換金できるしなもの(くちばしやら羽根やら、あるいはもっと価値のある装飾品を身につけてるやつもたくさんいる)が手に入るし、人を困らす魔物の退治にはいつだって賞金がどっさりかけられている。そもそも、その日は路銀が尽きてすらいなかった。

 だがオレが黙ってきびすを返さなかったのは、ひとえに相手が山高帽をかぶっていたからだ。

「ひとり用のベッドか?」とオレは訊いた。相手の答えなど初めからわかり切っていたけれども。

 まさか、と男は言った。にこりともしなかったのが空恐ろしかった。

「君の名前は?」

 もちろん名乗る必要はないし、いくら嘘をついたって構わないのだ。すべて仮面の奥に押し隠して済ませれば良いということは、誰しも理解している不文律である。だがそのときは仮面さえわずらわしく思われた。

「テリー。あんたの名前は聞きたくない」

 男はようやく笑みを浮かべた。契約は成立した。


 日銭に困らなくなったのは最近のことだ。自分の腕が確かになるにつれ、魔物からも人間からも傷付けられるリスクはなくなっていった。力ほどわかりやすいものはないとつくづく思い知らされた。

 以前はしばしば教会の頼りになった。「神のお慈悲」で食事と傷の手当て、そして一夜の宿を与えられるからだ。しかし神父に感謝こそすれ、肝心の神への信仰はただ薄れていくばかりだった。お空に神がいるなら、なぜ憐れな子供は今日も震えている? 神は乗り越えられぬ試練は与えません、と修道女は優しく諭し、オレは黙って頷いたが、実のところ全くの詭弁だとしか思えなかった。ばかげた試練に意味などない。苦境を試練と呼ぶならば、生に未練を残して死んでいく人々はどうなるのか。なんのために人の子に命を懸けさせるのだろう。神は身勝手だ。

 やがて、神ではなく俗世の人から文字通り極めて現金な手立てで報酬を得ることを覚えた。

 初めてのときは、うまいことだまくらかされた挙句のことだった。ぴかぴかの絹の山高帽に黒いコートを羽織った中年の男で、まあろくでもない下衆には違いないが、少なくとも振る舞いは紳士的だった。

「初めてだとは思わなかった。訳知り顔で落ち着き払っていたから」

 寝台でオレにひとしきり抵抗されてから、男は困り顔で言った。……本当に困っているらしかった。

「力づくというのは愉快でない。なあテリーくん、提案だが、ここはひとつ長期戦といこうじゃないか。一晩ではなく一週間つきあってもらえないか?」

 報酬は弾むから、と男は鷹揚に笑った。オレは半ばヤケのやんぱちで首を縦に振った。

 それから一週間、夕方から朝までを彼と共に過ごした。朝にその日の分の報酬を前払いで受け取って、昼間はひとりで好きにし、そして日が暮れるころ街の中央広場に立つオベリスクの前で男と落ち合った。彼はいつも山高帽をかぶっていた。

 何日目かに待ち合わせたとき、彼は広場のオベリスクが街の偉大な英雄を称えるものだと教えてくれた。

「世の中には力を手に入れて、こんなばかみたいな記念碑を捧げられるやつもいるのにな」とオレは言った。「それが、神の前ではみな平等だとは」

「ひねくれてるねえ。しかしぼくは平等だと思うね」

「信心深いんだな」

「いいえ。神の前での話じゃない、ただ人として平等だというんです。金で君を買うぼくも、買われる君も、そんなことはなにひとつ知らないあの裕福そうな母と子も、みな同じさ」

 黙って眉根を寄せたオレを見て、彼は乾いた笑い声を上げた。

「じきに解る。死なずに生きたまえ」

 一週間の期限はすぐにやってきた。最後の朝、男は布団の中でオレを抱きしめて「楽しかったよ」と言った。

「オレは楽しくなかったが」

「それは申し訳なかったね。でもぼくは君のそういうところが非常に楽しかった」

 男はいつもの広場まで送り届けてくれた。もし契約を延長するなら今夜の報酬を渡そうと言われたが、断った。

「正直ですね。持ち逃げしたって構わないのに」

 オレは黙って頭を振った。

「さよなら。あんたの趣味は軽蔑するけど、神よりあんたのほうがよほど真実だったとは思う」

 男は微笑み、山高帽を持ち上げて会釈すると、広場の人混みの中へ消えていった。

 それから今まで、買われることはなんどもあったが、覚えているのは彼だけだ。どこでどんなひととどんなことがあったかなんて、全部あいまいになってしまった。そしてほとんど全ての記憶は陰鬱だった。


 さて雨宿りの男はもういちど傘を差し、オレの肩を抱き寄せて驟雨の中へ歩き出した。

「夕餉にはまだ早いですね。なにか希望があれば聞くが」

「……熱いお茶が欲しい。雨に降られて冷えちまったから」

「よろしい。ブランデーかラムのほうがいいんじゃないか」

「酒は飲まない」

 男は愉快そうな声を漏らし、結構、と言った。

 画廊の並ぶ通りに古くからあるとびきり客層の良いカフェでお茶を飲ませたのは、オレを安心させるためだったのだろう。夕飯は広場の一等地で異国料理を出す店で、もの珍しさと美しさにうっかり機嫌も良くなりそうだった。そして内心、相手のなにからなにまで手慣れているさまに舌を巻いたりもした。まあスマートであるに越したことはない。なにしろビジネスなのだから。

「そういえば君はずっと剣を佩いているが」と、円錐屋根の小人の家みたいな形状をした奇妙な土鍋を開けながら(ものすごい量の蒸気が上がり、一瞬相手の顔が見えなくなったほどだ)男は言った。オレは席に着いている間も剣を帯びたままでいたのだ。「テリーくんは剣士ですか?わたしは武道に疎いが、君がよく鍛錬を積んでいることは明らかだ」

「そう、剣士だ。たぶんあんたが思ってるより強いぜ」

「そうかもしれないな。腕が立つなら、男に買われずとも生きていけるだろうに」

「食いつなぐためにやってんじゃない。昔はそうだったが。…」

「ただ空隙を埋めるためですか。もったいないな、顔も魂もこんなにきれいなのに。わたしの言えた義理でもないが、君のことはきっとまともに大切にしてくれる人がいくらでも現れるだろうよ」

「あんたはどうなんだ」

「わたしはただ欲求を満たしたいだけさ」

「ならオレと似たようなもんだな」

 相手は鼻で笑った。

「なにか希望があれば聞こう。宣言しておくと、私はどちらかといえばサディズムの気があるが、特に極端な指向というわけではない」

「痛いのは好きじゃない。でも報酬をもらってるから、どうするかはあんたの自由だ」

「善処しましょう。見上げた根性だ。──ねえテリーくん、もし君を殺したいと言ったら?」

 冗談だったのだろうか。男は口の端をかすかに歪めている。表情がよく読めなかった。

「試してみろよ。だがオレは自分の持ち切れる金よりも自分の命のほうが重たいと思ってる。それに、あんたとまともにやり合って負ける気はしない」

「おお、こわいこわい」と男は笑った。


 男は確かにサディズムの気があった。

 上等なホテルのベッドで、どこから調達したのか知らないが、なんだかよく解らない道具を使われた。行為は全般的にあまり普通でなかったが、身の危険を感じるほどのこともなかったのでこれといって抗いはしなかった。とはいえ(抵抗しなかったのが裏目に出たのか)しだいに痛みがエスカレートしていったのは事実で、途中からは目を閉じ歯を食いしばってただただ耐え忍んでやり過ごすだけだった。

 相手がすっかり満足するまでは我慢したが、そのあとはぐったりして会話する気にもならず、昏い眠りに落ちていった。「おやすみ」と耳元で囁かれたのがはたして夢か現か、知るすべもない。

 すっかり夜が明けてから、ゆったり髪をすく指先の感覚で目を覚ました。

「おはよう、テリーくん」

 目を開けば、男が上機嫌でオレを見下ろしている。

「……おはよう」

 相手の顔を睨んだり、あるいは殴りつけたりしなかったのは、そんなことをしても無益だとわかっていたからだ。そう、夜のことは夜でおしまい。

 しかし彼はよりによって「昨夜はどうだった?」と言葉を続けた。オレは思わず舌打ちしてしまった。わざわざ訊くかよ。

「あんたが良かったならこっちは別にどうでもいいさ。……まあ訊かれたから言うが、オレのほうは最悪だった。ちぇ、善処してあれかよ」

 いえ、と男は薄ら笑いを浮かべた。

「善処しませんでした。痛かったでしょう。そのぶんの報酬は払いますので」

 特に抗議することもなかったので、オレは黙っていた。男はシャツにガウンを羽織って部屋を出て行ったが、しばらくして盆にポットを乗せて運んできた。それからカップふたつに熱いお茶を注ぎ、そのうちひとつに砂糖を溶かして、ベッドの中のオレに手渡した。昨日お茶を飲んだとき砂糖だけ使っていたのを覚えてたんだろう。自分のカップにはミルクだけ入れ、彼はベッド脇のスツールに座った。

「手慣れたもんだな」とオレは無感動に呟いた。

 すばらしく芳しい紅茶だった。のどが渇いていたもので、三杯も飲んでしまった。黙ってカップを傾けるオレを、男は至極満足そうに眺めていた。

 最後の杯を空にしたところで、男は「よくあることではないのですか」と問いかけてきた。

 なにを訊かれたかわからず、お茶をばかみたいに飲んだことかとカップをわずかに持ち上げてみたが、違う違う、と相手は笑った。

「買われることがさ」

 オレは肩をすくめてみせた。

「ないな、少なくとも最近は。昨日も言ったが、食うに困ってるわけじゃないし」

「ではなぜわたしに着いてきた?」

 さあ、とオレは再び小さく肩をすくめた。本当にわからなかったのだ。「……あんたのかぶってた帽子が気に入ったからかもしれない」

 ハハ、と声を上げて男は笑った。

「金に困っているでもないのに金で自分を売って、金を受け取っているから嫌な行為にも甘んじなければならないとは、ずいぶんナンセンスな話に聞こえるが。ただ欲求を満たしたいなら、行きずりの恋でいい。痛い思いもせずに済むでしょう」

「オレが満たしたいのは空隙であって、欲求じゃない。あんたの言った言葉だぜ」

「……わたしとだって、報酬のやりとりさえなければ君も純粋に快楽を味わえたのに」

 ちらりと相手に目線をやったが、彼は空になったカップの内をじっと見つめている。カップの底に残った茶殻で判じるうらないがあるといつか聞いたのをふと思い出したが、──いや、あれは茶でなくコーヒーだった。だいたい今、男がカップの底に未来を読み取ろうとしている可能性は万にひとつもない。オレはさまよいかけた思考を引き戻した。

「あんたはまともに愛した人ともあんなセックスするのか」

 男は黙って立ち上がり、ふたりぶんのカップを脇机に置いた。それから顔をこちらに向け、まっすぐオレの目を見据えて「まさか」と答えた。

 なんとなく心苦しくなって、オレはそっぽを向いてしまった。

 さてテリーくん、と男は再びスツールに腰かけながら言った。

「昨夜の契約はみな履行されました。君さえ良ければ、今晩また会ってくれないか」

「……お断りだ」

「報酬なしでも?」

 ──報酬なしでも?

 思わず相手の顔を見返せば、いかにも本気らしい表情である。おかしなことを言うじゃないか、「金を払うから」ではなく「金は出さないから」とは!

 オレは男の前で初めて笑った。ひとしきり笑って、しかしオレの返事は同じだった。

「いいや、会わない。あんたのことはそこまで嫌いじゃないが、この部屋を出たらもう金輪際、会わない」温情なく言いながらも、オレは相手に手を差し伸べていた。「ただ、部屋を出る前に、……もういちどだけ」

 言葉の続きが結ばれるより先に、男は寝台に乗りかかってオレを抱き寄せていた。彼は、不意を突かれ身をすくめたオレの頬を撫でて「ありがとう」と囁いた。それから唇に唇を押し当ててきた。昨夜とは違う種類のキスだったが、別に動揺したりはしなかった。なにしろ相手が手慣れていることはわかっていたからだ。…

「ここからは契約外だ」と男は言った。「なにか希望があれば聞くが」

「なにもない」とオレは首を振った。





おしまい