彼は暗闇の中で目を覚ましました。
最初に感じたのは、シーツがさらさらしてるな、ということでした。それから彼は意識を失う前のことを思い出そうとしました。ええと、なんだっけ。まず、城が空から降りてきた。妙な話だ。中に招き入れられて、魔王とか称するやつと戦って、それで負けたんだったかな。そうだ、矛で刺されて、そっから先の記憶がない。ひょっとすると自分はもう死んでしまっていて、ここは黄泉の国なのかも知れない。…
なにしろ酷い気分でした。すごく寒いし――それに頭は割れそうに痛むし。身体が自分のものでないかのように重くて、起き上がるのも億劫で彼はただ暗闇を見つめていました。本当に真っ暗で、目を開いても閉じてもなにも変わらないほどでした。それになんの物音もしませんでした。
暗闇に横たわったままで、思考だけがとりとめなく彷徨いました。彼は幼いころに姉を奪われ、自身も故郷を追われたのでした。彼女を守る力のなかった自分と理不尽な世間とを許せないと思いました。それから今まで、彼はいつだって一人ぼっちでした。誰も自分を守ってくれない、強くならなきゃ。弱さは罪だ。やみくもに力を求めましたが、その先になにがあるのか、今に至るまでついに答えを得ることはできませんでした。
その先にあるもの。
それは、…




――Yellow matter custard is dripping from a dead dog's eye.




不意に彼は遠くで響く足音に気付きました。こつこつとそれは次第に近づいて、やがて部屋の扉が開きました。灯火を持って入ってきたのは、彼を負かした魔王でした。

「やあテリー、ちゃんと生きてるかな?」とデュランは言いました。
テリーは黙っていました。
「わたしに殺されかけた傷は塞がったかな?うちの部下には優秀な癒し手がいるから。気分はどうかね?……ふふっ、良くはないか。なんせわたしに殺されかけたんだからなぁ」魔王はべらべら喋りました。「ところで、なにか言いたいことがあるんじゃないのか?」
テリーはやっぱりなにも答えませんでした。彼には魔王の意図が理解できませんでした。オレがデュランに生かされたって?いや、それよりなにより――
「悔しいか」

……そう、悔しい。

「お前が弱かったのが悪いんだ。弱さは罪だと、知ってるんだろう」

……じゃあ、殺せよ。

思いが表情に出たのを見て、デュランは顔を歪めるように笑いました。悪魔の笑みは、邪悪な笑み。
テリーはばかに楽しそうな魔王の顔から目を背けました。暗い灯りに照らされて部屋の様子が見て取れました。てっきり牢屋だと思っていたのですが、そこは寝室のようでした。
紛方なき恐怖が予感されました。しかしテリーにはどうしようもありませんでした。

強さを求めたのは、ただ慙愧に耐えられなかったから。力を得て何を為す?
それは初めから暗闇に続く道。…



悪魔が覆い被さってきて、テリーの頭の中は真っ白になりました。ついで、なるべくならこのまま真っ白にしておきたいと思いました。それで彼は思考の入り込まないように戯れ歌を思い出そうとしました。しかしとっさに浮かんだのは、なんとも気味の悪いフレーズでした。

――カスタードみたいな黄色い膿が、死んだ犬の目から滴っている

冷たい指が這い伝う感覚に、テリーはぞっとしました。悪魔が気まぐれにとがった爪を立てると、指の辿った軌跡どおりに赤い腫れ痕が残されました。喉の奥から悲鳴が漏れました。

――おれは誰かさん、あんたも誰かさん、つまりみんないっしょ

冷たい腕が竦んだ身体を抱きしめました。氷のような交わりでした。悪魔の触れたところから、白い肌の上に黒い染みが広がっていく気がしました。やがて苦痛は消える、と相手は囁くのでした。

――庭に座って太陽が出るのを待っているんだ

冷たい唇が乾いた唇に重なって、むせるような死の匂いにテリーの息は詰まりました。
相手の黒い瞳に自分の薄紫の瞳が映っていました。そして薄紫の瞳に光った涙が、黒い瞳の中できらめくのを見ました。

――狂言回しが笑ってる

冷たい舌が絡まり、体液が交換されても、苦痛はなお苦痛のままでした。

――セイウチがグーグー鳴く




――I am he as you are he and we are all together.




テリーはふたたび目を覚ましました。
燭台には火が灯っていました。よどんだ空気の中に悪夢の澱が沈んでいます。記憶は割けるような痛みとして身体に残っていました。しかし彼は構わずに起き上がり、よろい窓を開けました。外は青空。…

彼は服を着て部屋を出ました。服と一緒に雷鳴の剣が置いてあったのは意外でしたが、気にせずにそれも身に着けました。部屋の前の階段を下りると、ベホマスライムがふわふわしていました。
「どうも、テリーーさん」と、そいつは呑気な様子で声をかけてきました。「お城の中がどうなってるのか分からないでしょう。だからぼくが案内してあげます。こっちだよ、テリーーさん」
……なんでそんなに名前の語尾を延ばすんだ。
本当は、出会ったヤツはみんな切り捨ててやろうとテリーは思っていたのです。でもなんだか殺気を削がれてしまいました。それで黙ってついて行きました。
「けがは大丈夫ですか?ぼくが治したんだよ」と、得意げに相手は言いました。「まだ痛いところがあったら言ってね、テリーーさん」
「……そりゃドーモ」
気のないドーモでしたが、ベホマスライムはとても嬉しそうにしました。

廊下を渡って、階段を上って下りて、ふたりは広間の前まで来ました。扉は開かれていました。ぼくはここまで。またあとでね、テリーーさん。ベホマスライムはどこかへ行ってしまいました。
広間の玉座にデュランが座っています。赤い鎧の部下となにか話していたようですが、テリーが入っていくとそいつは脇へ下がりました。鎧の中身はがらんどうかも知れない、とテリーはなんとなく思いました。

「おはよう。思ったより早起きだったな」と、デュランは上機嫌で言いました。
返事の代わりにテリーの剣の刃が閃きました。しかし魔王はたやすく打ち払いました。
「無謀な奴だな。少しは鍛えてからにしろ。そらそこに、練習相手がいる」
指差された赤い鎧が、ちょっと頭を下げました。
「ふざけんな!オレかお前か、どっちかが死んで、それでおしまいだ」とテリーは怒鳴りました。
「そうかね。言っておくが、お前はわたしに勝てやしないし、わたしはお前を殺さない。仲良くやろうじゃないか」
「こっちも言っとくが、お前と手は組まない」
「ハ、威勢がいいな。その意気だ、テリー。何度でも相手してやろう」
テリーの顔が怒りで引きつるのを見て、デュランはもうひとこと付け加えました。
「やがて苦痛は消える」




――Sitting in a garden,I am waiting for the sun.




テリーは与えられた部屋の窓際で、ほおづえをついて外を見ていました。部屋は尖塔のてっぺんで、螺旋階段をぐるぐる上っていった先にありました。折りしも夏の盛り。眼下に遥けく広がる大地は染みるほどに青やかで、命に満ち満ちています。しかし彼の心は晴れませんでした。バカバカしい、囚われのお姫さまじゃないんだから。
とはいえ、彼は閉じ込められていたわけではありません。デュランは「たちの悪いものども」が城内にたくさんいるから自室の外では気をつけるようにと注意しただけで、テリーが何をしようと構わないようでした。そしてそれは魔王のすべての部下にとって同様だったので、ヘルクラウド城はえらく剣呑でした。

ふと見ると、胸壁の内側で二匹の魔物がなにか盛んに言い争っています。いきなり片方が剣を抜いて相手の首をはね飛ばしました。首は胸壁の外へひゅるひゅると落ちていき、あとには胴体だけが残されました。
テリーはおもむろに立ち上がり、剣を帯びて部屋から出て行きました。

無為な日々でした。
殺して、殺されかけて、それでなにが変わるでもありません。そしてたまに魔王の褥で抱かれました。
テリーは甘んじて相手のしたいようにされました。初めは命がけで抵抗したのですが、どうせ敵いやしないし、それどころか抵抗が相手を激して結局ひどい目に遭うことが分かったからです。回数が重なるたびに身体の苦痛は小さくなっていきました。しかし精神の痛みはいや増すばかりで、しかも癒えずにどんどん蓄積されました。いずれにしろ、行為は一切の快楽と無縁でした。
日を追って翳っていく薄紫の瞳に、魔王はほくそ笑みました。



テリーが部屋でぼんやりしていると、ノックの音がしました。
「テリーーさん、いますか」
扉の向こうからベホマスライムの声がします。ここに来てから何度も世話を焼かせる羽目になってしまったので、もう馴染みでした。テリーは扉を開けました。
「こんにちは。ご機嫌いかが」と、ベホマスライムは挨拶しました。
「サイアク」と怖い顔でテリーは答えました。
「そうですか。だけどご機嫌はぼくのホイミじゃなおせないんです。誠に恐縮ながら」と、相手は謝りました。
真面目にそう言うもんだから、テリーは少しだけ笑いました。
「そんなことないぜ。ちょっと直った」
「ほんとに?良かった。あのね、デュラン様があなたを呼んでますよ」
「用があるならテメーが出向いて来いって伝えろよ」
「えっと、あなたにそう言われたら、『私室に招いて貰えるとは光栄だ』って返事するようにっておっしゃいました」
テリーは舌打ちしました。
「行くよ。馬鹿にしやがって」
「広間におられます。案内しますか?」
「いらない。ありがとう」
そう言ったものの、彼はその場を動こうとしません。
「やっぱり案内しますか?」
「いや、あとで行くから」
待たせてやれ。3日くらい。
そう思ってむすっとしていると、ベホマスライムは迷った末に喋り始めました。
「あのう、テリーーさん。ぼく、ご主人が替わることになったんです。真ん中の世界に行くんだ。だから今日でお別れです」
「そう」
ベホマスライムがなにを言っているのかテリーにはよく分かりませんでしたが、とりあえずどこか遠くへ行ってしまうらしい。
「もう回復してあげられないから、ケガしないように気をつけて下さい。あ、でもデュラン様もホイミできるから、これからはデュラン様にお願いしたらいいです」
「はいはい」
「それで、早く行かないと怒られるよ。ねえ、案内しますか?」
「……はいはい」




――Don't you think the joker laughs at you?




広間の玉座の前で、テリーは血だまりの中に立ち尽くしていました。
足元にはすでにこと切れた人間の子供が倒れています。彼が殺したのです。



彼がベホマスライムと一緒に広間に入ってきたとき、そこには城の主と、見たことのない紫の鎧のやつと、そして紫のやつに手を引かれて(テリーをはなはだ驚かせたことに)小さな人間の子供がいました。いったい生気の感じられない、恐ろしく暗い顔の子供でした。なんのためにどこから連れて来られたのか、テリーは怪しみました。まさか食べるつもりじゃないだろな!

「代価だよ」
あたかもこの一言でかれの疑問が解決すると考えているかの様子で、デュランが言いました。
「……ぼくのね」とベホマスライムが言い足しました。「ぼくが真ん中の世界へ行って、この子供がこっちの世界へ来たんです」
「こんなところで何をさせようっていうんだ」とテリーは言いました。
それから子供の前に屈みこんで、顔を覗いて――声をかけようと思ったのですが、躊躇しました。およそ子供のものとも思われないような憎悪に満ちた目をしていたからです。彼は突然、我慢できないほどの忌まわしさを伴った既視感に襲われました。それで立ち上がって、そんな顔すんなよ、とだけ言いました。子供は黙っていました。
「わたしの下で強くなりたいんだそうだ」と、デュランが言いました。
すると突然、子供が「違う!」と叫びました。「お前と決闘しに来たんだ!」
彼はいきなり短刀を抜いて、退け!と怒鳴ってテリーに向かってぶんと振り回しました。しかしテリーは落ち着いて子供の手首を押さえました。
「やめろよ。お前じゃ無理だぜ。だいたい、ここは人の来るとこじゃない。……子供は特に」と、テリーは言いました。
「だってオレがやらなきゃ。大人は――みんなぼんやりして、誰も助けてくれないから。お姉ちゃんを返せ!」

その言葉に、テリーは怯みました。
一瞬の隙に子供は彼の手を振り払い、玉座の主に向かって跳びかかりました。しかし子供は玉座の手前で赤い鎧のやつに斬られました。手を払われたときに短刀がテリーの腕を傷つけましたが、すぐにベホマスライムが寄ってきて魔法で癒しました。

「なんと唆されてここにきたのか知らんが、」とデュランは言いました。「わたしにはお前の言うことが分からない。お前の町はわたしの管轄外だ。残念だったな」
テリーは倒れて呻く子供に駆け寄り、抱き起こしました。致命傷です。彼はベホマスライムを見ました。けれどもベホマスライムは知らん顔でした。子供はぞっとするほど暗い目でテリーを睨み、憎い、と呟きました。
「苦しんでるぞ。なんとかしてやれ」
にやっと笑ってデュランはテリーに言いました。
手当てしないと。
でも、とテリーは思いました。生き延びたとして、それでこの子はここでどうなる?あの町で、あいつらは、オレを殺さなかった。それでオレは生きてここにいる。ここに――それはもはや人の歩むべき道にもあらず。
ざあっと心臓が冷たくなった気がしました。なにも言わずに彼は床に落ちていた短刀を取り、子供を殺しました。
デュランが高く笑いました。

「屠ってしまいましたな」と、紫の鎧のやつが言いました。「だが支払いはしていただきます。代価は代価。…」
しかし彼がみなまで言うことはありませんでした。
テリーはいきなり紫の鎧のやつを一刀のもとに斬り捨てました。相手はがしゃんと音を立てて床に散らばりました。鎧の中身はがらんどうでした。頭に血が上って、そのまま赤い鎧のやつも斬り払いました。やっぱり中身は空っぽでした。
振り返ると、後ろのほうでベホマスライムがにこにこしています。
テリーの手から剣が滑り落ちました。
結局、彼は一人ぼっちでした。

手が血で濡れていました。赤い血で汚れた手を、しかし彼は洗いませんでした。洗っても落ちやしないと分かっていたのです。



テリーは自分の中で人間的なさまざまの感覚がどんどん麻痺してきているのを感じました。
心を完全に失くしたらどうなってしまうんだろう。心を悪魔に売り渡したら、自分も悪魔になるんだろうか。…
ああそれは嫌だ、と彼は思いました。それでその夜、最後の最後に、デュランの求めを拒みました。

「やめろ、もうこれ以上は。……オレはここでは生きられない」とテリーは言いました。
「なにを今さら」と、感情無く魔王は言いました。
「嫌だ――人でいられなくなる」
かくて魔王は相手の恐怖の本質に気付きました。彼はひそかに、人知の及ぶところでない残忍な喜びを感じました。
「だからなんだというのか」と、蔑むようにデュランは言いました。
……ちっぽけな人間の、これが最後の一線。見よ、すぐにこちらへ堕ちてくる。
「それのために強くなりたいとお前に思わせたものは、とうに空しくなったというのに」

テリーは顔を歪めました。
――それのために強くなりたかったもの?そうだ。忘れ得ぬ、金の髪の、美しい少女。あの日の晴れた空。かぐわしい風。
しかし記憶は現実よりも遥かに鮮明な情景となって彼の脳裏に焼きついているのでした。
「幻にしがみつくな」と魔王は言いました。
「幻なんかじゃない」とテリーは言い抗いました。けれども彼の声は無意味に空気を震わしただけのように思われました。
「すでに失われたのだ」と、諭すようにデュランは囁きました。
なんと甘美な、悪魔の声音。耐えられずに、テリーは目を閉じました。
それでも今だって、瞼の内に。
金の髪の、美しい――
「その未練がお前を弱くする」



テリーはつと顔を上げました。魔王の暗い瞳の欺瞞が緩んで、一瞬、その奥にあたかも真実らしきものが見えたような気がしました。そして、なにか決定的だったものが不意に冷たく掻き消えていくのを感じました。
無意識のうちに彼は魔王の方に手を差し伸べていました。魔王はその手をつかんで彼を引き寄せ、唇に口付けました。薄紫の瞳から流れた涙は氷水のようでした。

ぬばたまの暗闇の中で、彼は初めて苦痛以外の感覚を知りました。
それは伝説の武具をまとった勇者が現れる前の夜のことでした。


おしまい