A whale is no more a fish than a horse is.
──出会いは物理的には必然ですが、われらが出会いを語るときはたいてい心理的な意味合いを持ちますから、偶然でもあります。




 レックがその風変わりな男と出合ったのは大学に入って二度目の春、そろそろ薄手のコートも要らない陽気になろうとするころだった。

 それはまったく冗談のような出会いだった。
 レックがコーヒーの入った紙コップを持って歩いていたとき、角を曲がったとたんに前からきた相手とぶつかって、コップの中身をみんなひっかけてしまったのだ。運良くコーヒーは熱くなかった。しかし運悪く、相手は真っ白のシャツを着ていた。大慌てで謝りながら、持っているわけもないハンカチを探すふりをしてみたりして──そうこうするうちに相手が愛想笑いで「ヘーキですよ、気になさらず」だなんて言ってくれんじゃないかと期待したのだが、残念ながら苦々しい顔で舌打ちされただけだった。
「ホント、ごめんなさい」と、レックはむやみになんども頭を下げた。「ええと……あの、これ貸そうか?」
 苦しまぎれに自分の着ていた服を指差して訊ねたら、相手はもっと嫌な顔をした。なにしろそのときレックが着ていたのは、大きく『とんかつ』と書かれたばかみたいなカットソーだったのだ。
 いや、と相手は口ごもった。『とんかつ』を着て歩くのは御免だったからだ。しかしレックは彼が遠慮しているのだと思った。
「オレは平気だよ、コート持ってるから。羽織って前を閉じちまえば、中になにも着てなくたってわかりゃしないし」
 相手はもう一度、舌打ちをした。
 そういうわけで二人は知りあいになった。男の名はテリーといった。

 レックは経済学部の学生だ。授業よりもむしろフットサルサークルのほうによほど精力を傾注していたが、根が真面目なもので、まあ要領よく勉強もしている。ありていに言って経済学に興味はないが、自分が研究者的資質と無縁であることを自覚していたから特に不満はない。数学と物理は好きだが、研究室にこもってずっとモノと顔を突きあわせる生活はちょっと考えられなかったので、経済学部に進んだのだった。つまるところモノよりヒトの好きなたちなのだ。
 彼が二度目にテリーと会ったのは、コーヒーをひっかけてから三日後、洗ったシャツを返すため昼休みにカフェテリアで待ちあわせしたときだった。
 レックが友人のハッサンとお昼をとっているところへテリーは現れた。右手にネピアの空箱をひとつ、やけに大切そうに抱えている。
「よう、……アンタ」とテリーは言った。相手の名前を忘れてしまっていたのだ。
「レックだよ。やあテリー、こっちはハッサン。ハッサン、彼がテリー」
「おう、よろしくな。はーん、うわさどおりのオトコマエだな」
 笑いながらハッサンは右手を差し出した。驚くべき上腕二頭筋である。彼は筋肉トレーニングマニアなのだ。テリーはネピアの箱を左手に持ち替えてから、ややおっかなびっくりで「はじめまして」と握手に応えた。
「お昼は?」とレックはテリーに訊いた。
「まだだが」
「じゃあいっしょに食おうぜ」とハッサンは機嫌良く言い、隣の席に置いていた大きなアルタートケースを脇に避けてテリーのために席を空けた。
 ハッサンは工学部で建築をやっていて、いかつい外見と豪快なもの言いからは想像もできないような、綺麗で繊細な図面を引く。ただし製図室の彼の机は恐ろしく汚い。日焼けした筋肉男が、ゴミに埋もれた製図板と割れた定規、それにペン先の曲がったロットリングによって美しい図面を生産するさまを誰もが奇跡と呼ぶ。
 テリーは席につかなかった。
「今日はちょっと」と言葉をにごして、左手のティッシュボックスをちらりと見やる。レックもつられてネピアに目をやった。空箱かと思ったが、よく見れば丸めたちり紙が放りこまれている。相手の視線に気づいたテリーは、レックの前にネピアを差し出した。箱の中でなにかがゴソゴソと音を立てた。ちり紙の奥に、ねずみのたぐいの顔がちらりと覗いた。
「……ネズ公のさんぽ?」とレックは眉をひそめた。
「そんなわけあるか。学部の研究室からもらってきたんだ」
「実験動物か」とハッサンが神妙に言った。
「違う。これは愛玩動物だ」
「きみが愛玩するの?」とレック。二枚目だが無愛想なテリーが実は動物好きだとは、ちょっとおもしろい。
「いや……うちでは飼わないが」
 レックとハッサンはそろって首をかしげた。テリーはめんどうそうに「アネキが」と言い足した。「あと、ネズ公じゃない。こいつはジャンガリアンだ」




I wish I were a bird.
──窓の外を見ればそこにありますから、空を写真に納めておく必要はないのです。




 テリーはコールに応答しないしメッセージも確認しない。
 彼の一人暮らしのアパートを訪れるとき、レックはあらかじめ連絡もせずに向かうことにしていた。いつも日が暮れてから行く。夜ならテリーはたいてい家にいるからだ。テリーは、相手がどんな時間に来ようともまるで気にしなかった。彼は部屋で勉強するか本を読むか、さもなくば犬のポールと遊ぶか、カメのリンゴとドランゴ(小さいほうがリンゴ、大きいほうがドランゴだ)の世話をするかしていた。
 さて、ある夜レックが彼の家に遊びに行くと、部屋の主はベッドに寝転んで勉強しているところだった。テリーはいつもベッドの上に大量の本やらノートやらを広げて、ごろごろしながら勉強する。それで眠たくなったらポールをベッドにあげて、本を枕にしてそのまま寝てしまうのだった。
 勝手に鍵を開けて部屋にあがりこんでも、いつものことながらテリーは視線もよこさなかった。わざわざ立ってドアを開けにゆくのが面倒だから、という理由で、テリーはレックに合鍵を作らせたのだ。彼は農学部で動物のお医者さんの勉強をしていて、驚くべき勤勉家だ。少なく見積もっても自分の十倍は勉強しているに違いない、とレックは思っている。
「遅くまでかかりそう?」とレックは声をかけた。
「いいや」とテリーは答えた。
 それでレックは待つことにした。時間をつぶすのはたやすいことだ。誰かがそばで音楽を聴こうが映画を見ようがゲームをしようが、テリーはまるで平気だったからだ。彼が平気でなかったのはたった一度だけ、レックがコント番組を見てげらげら笑い続けたときだけだった(その日、レックは怒ったテリーに部屋から叩き出されてしまった)。
 果たして二時間もしないうちにテリーはペンを投げ捨てた。彼は散らかしたたくさんの本を、ページを開いたままどんどん重ねて積みあげ、いちばん上に筆箱と文鎮を乗せると、よいしょと抱えて床に置いた。いい加減に積んだもので、置いた途端に崩れてしまったが、テリーは知らん顔だ。
「お待たせ。九時か」と、ようやく手の空いた飼い主に駆け寄ってきたポールの頭を撫でながらテリーは言った。「メシがまだなんだが」
「あらら、かわいそうに。朝あげなかったの?」
「いや……ポールじゃない。オレがまだなんだよ。レックは?」
「食べてきちゃった」
 なんだ、とテリーは呟いた。レックがまだなら、なにか作ってもらおうと思ったのだった。それがあからさまに顔に出たので、レックはつい苦笑いを浮かべた。
 テリーはまるで料理ができない。作る意志はあるものの、からきし能がない。彼の作ったものはいつだって、辛すぎるか甘すぎるか、濃すぎるか薄すぎるか、固すぎるか柔らかすぎるか、多すぎるか少なすぎるかするのであって、中庸ということはなかった。
「いいよ、作ったげるよ」とレック。料理は得意というほどでもないにせよ、少なく見積もってテリーより十倍はましだ。「なにがいい?」
「ええと、オムライス。──ああだめだ、卵がないな。いや、そもそも米もなかったな」
「なに食って生きてんだよおまえ……ほかに主食的なものはないの?」
「どこかに小麦粉があるぜ。あとそうめん」
「じゃあそうめん茹でよう」
「……昨日も一昨日もそうめん食ったんだけど」
「……今日もそうめん食うんだ」



 レックはたいへん裕福な家庭の育ちだったが、一方のテリーはみなしごだった。
 本人曰く、学業関係の必要経費はいろいろテツヅキすればまあなんとかなる、とのことだが、それにしても経済的にずいぶん苦労しているのはレックの目にも明らかだった。なにしろテリーは食べ物で釣るととたんに機嫌が良くなるのだ。
 しかしテリーにはどうも妙なところがあった。
 彼は週末の夜だけアルバイトをしているようだったが、仕事の内容についてはレックがいくら話を向けても明かさなかった。いったい、そんな少しきりの労働で都会の生活費をまかなえるものだろうかとレックはいぶかしんだ。
 テリーの持ちものもまた奇妙だった。そもそもレックが初めて彼と会った日──出会い頭にコーヒーをかけてしまって、「洗って返すから」と預かった彼のシャツがランバンだった。それでそのときは、ずいぶん衣装に金を掛けるヤツだなと思ったのだ。しかし実のところテリーはまるで金持ちではなかったし、だいたい普段はかなりいい加減な服ばかり着ていた。そうかと思えばマッキントッシュのコートを羽織ったりしているのだった。
「いいコート着てるなあ」と、ふしぎに思ってレックは訊いた。
「もらいもの」とテリーは気もなさそうに答えた。
 そんなことがしばしばあった。テリーには服の好きな友人がいるのだろう、とレックは考えた。

 さて、ある日レックがテリーの部屋に遊びに行くと、窓際にヤコブセンの真新しいエッグチェアが置いてあった。レックはさすがに仰天して言葉を失ってしまった。
「あの椅子、ポールが気に入ってんだよ」とテリーは興味なさげに言った。確かに彼の黒いレトリバーが赤い座面で丸まって眠っている。
「どうしたのアレ? どこで拾ったんだ」
「拾ってない、買ったに決まってるだろ。コン……なんだっけな、コンとかランとかいったかな」
「……コンラン?」
 じゃあ正真正銘じゃないか。しかも本人はよくわかっていないらしい!
 レックがあからさまに怪訝な表情を浮かべたので、テリーは困った顔をした。もし彼がそのまま黙っていたなら、レックもそれきり追求しなかったかもしれない。しかしテリーが「買ったってか、買ってもらったんだ」と言い足したもんで、レックはがぜん詮索してみる気になった。
「あんな良い椅子、誰が買ってくれるの?」
「知りあいの──ええと、オッサン」
「なんだそりゃ。どういう知りあいなんだ」
「バイト先のオーナー」
「いつも週末にやってるアルバイト?」
 そう、とテリーは頷いた。ますます意味がわからない。あの椅子ひとつで、一年分ほどの賃金になっちまうんじゃなかろうか。モノに頓着しないテリーに、なにを思ってこんな贈りものをするんだ?
「オーナーって何者だよ。えらい気に入られてんだなあ。……ちょっと退いてね」とレックは言った(最後の一言は椅子にじんどっていたポールに向けた言葉だ)。
 頭のいいポールが彼の意図を察して椅子からぴょんと降りると、レックは真っ赤なヤコブセンに腰かけた。エッグチェアの名のとおり、背もたれが卵の殻みたいに丸くって包みこまれて周囲と隔絶された心持ちになる。それにも関わらず、赤い色のせいだろうか、なんだか気分がざわざわして落ち着く感じはしない。妙な椅子だ。きどったホテルのロビーに並べてあったなら、そんな違和感は覚えないだろう。そう、テリーの部屋にあるから妙なんだ。──ふと、この椅子をテリーに与えたオッサンとやらは、テリーの本質を自分よりずっとよく解っているのかもしれないとレックは思った。一種の演出なんだろうか。ものの美しさを知っていて、風流で、しかも悪趣味な。
 卵のなかみの気分、と彼は呟いた。





続きます