レイドック王子の指定した待合せ時刻は正午だった。
 城の兵士長とお客人は、王宮の北庭を見下ろすテラスの円テーブルに着いて世間話をしていた。長身の兵士長にくらべて客のほうはずいぶんと小柄だ。立ちあがったら頭ひとつ半ほど違うだろう。彼らを呼びつけた当の王子はまだ姿を見せていない。
 やがて塔の時計台が昼の十二時を告げはじめ、兵士長が「珍しいですね、殿下が遅れるとは」とつぶやいたところへ、時間きっかりで王子が飛びこんできた。
「やあ、お待たせ」
 彼が小さく片手を上げると、兵士長は席から立って敬礼したが、客のほうは頬杖をついたまま眉をあげただけだった。
「ようこそテリー、ご足労かたじけない。フランコ兵士長、給仕を頼んできてくれないか。──ちょっと急かしとけ、客人は腹ペコだって。それから、悪いがカフスを取ってきてほしい。わたしの席に置いてあるから」

 兵士長が一礼して出て行くと、王子は少し乱れてまつ毛にかかった青い髪を指先で横に流しながら、円卓のひとつ空いた席に座った。柔らかそうな生成りのリネンシャツに、黒いパンツを履いている。左腰には細身の剣を佩いたままだ。ずいぶん品のよいことである。このままピクニックにでも行くみたいな装いだな、とテリーは考えた。
「ひさしぶり。おまえのことだから遅刻するかと思ってたんだけど」と王子は──レックは言った。
「まあな。おもしろそうな用件だったから」
「なんだよ、じゃあいつも遅れて来るのはわざとかよ」
 レックは憤ったが、テリーは笑って取りあわなかった。
「それよりレック、おまえ、レコルダンスって名前だったんだな。兵士長がおまえのことを聞いたことない名前で呼ぶもんだから、誰の話してるのかと思ったぜ」
「ええ? なにを今さら……昔、自己紹介したときに名乗ったはずだけど」
 そうだっけ? とテリーは興味なさそうに首を傾げた。きっとまたすぐ忘れてしまうに違いない。首傾げついでに、彼は王子が下げている剣について不思議そうに訊ねた。
「得物変えたのか? レイピアのたぐいは嫌ってたじゃないか」
 嫌いだよ、とレックは苦笑いした。それから立ちあがって剣を外すと、象嵌で美しく装飾された鞘ごと相手に投げてよこした。
「飾りさ」
 テリーは剣の鞘を払った。なるほど、確かに武器と呼ぶにはいささか華奢である。ほとんど装身具だ。そのまま片手で真横に振り抜くと、刃は思いのほか小気味良い音を鳴らした。
「まあ、悪くない飾りだな」と彼は言った。
「帯刀の義務があるんだ。軍人だからね、オレ」とレック。「寝るときも枕元に置いてんだぜ」
「……へえ、軍人」
「……そう、軍人。魔王を倒して帰ってきたら、なんか武官にされちゃった」
 至極まっとうだろうとテリーは思った。それで芸人にされちゃたまらない。

 レックはテラスの向こう、城の北庭に設けられた広い演習場を見おろした。十五時からここで剣術の公開演習がおこなわれる。客人はそのために招かれてきたのだ。周囲をぐるりと囲む長い生垣を庭師が手入れしているのが見えるが、演習場の中にまだ人影はなかった。見あげれば初秋の遥かな晴天。今日のレイドックは晴れの特異日である。
 彼は上機嫌で「絶好の鍛練日和だな!」と言った。
 そこへ兵士長が戻ってきた。
「大いに急かしておきましたよ。レコルダンス殿下は腹ペコでいらっしゃる、とね」
 少し遅れて、給仕が食卓を整えはじめた。

 食事は略式ながらとびきり上等だった。
 給仕がアペリティフを運んでくると、レックは杯を捧げ、よそゆきの声で「君らの健闘を祈念して」と言った。
「この輝かしい国に」と兵士長が引きとった。
 それから二人はテリーのほうを見たので、彼もなにか言わざるを得なくなってしまった。
「いいお天気に」とテリーは言った。
 秋空の下で三人は乾杯した。小さな切子のグラスに入った暗い琥珀色のシェリーはすばらしい味だったが、アルコールはそれきりだった。なにしろこれから大仕事があるのだから、酔いどれるわけにはいかない。
 料理の一皿目はチコリーと血入りソーセージのサラダで、その次にリーキのポタージュが運ばれてきた。持ち手のついた小さなカップが湯気をたてている。王子は持ち手をつまんでカップから直接飲んでしまったが、隣の兵士長はかしこまってスプンを使った。テリーは匙でスープをくるくるかき回しながら、レックに話しかけた。猫舌なのだ。
「さっき、武官に叙任されたとか言ってたな」
「ああ。たいそう立派な武勲をあげたもの」とレック。
 フランコ兵士長は嬉しそうに王子に一礼した。
「そりゃ理にかなっちゃいるが。しかしレックは文官向きかと思ってたぜ」
「まあ、本当はそっちを志望したんだけどね。父王陛下が『さきに本を読んでから言え』ってさ」
「それで、王子はせっせと書見にはげんでらっしゃると」とテリーはまぜ返した。「ま、いつかは文官になれるんじゃないの? ……どうでもいいけどな」
「テリー殿のおっしゃりたいこともわかりますが、レイドック軍にはレコルダンス殿下が必要ですよ」
 兵士長は真顔で言った。さもありなん、今やこの城で王子とまともにやりあえるのは彼しかいない──それも練習用の刃引きした剣に限った話で、真剣なら勝負にもならないだろう。そのうち両方兼任でやらされそうだな、と複雑な表情でレックはつぶやいたが、兵士長はにこにこして「結構なことです」と言った。テリーは匙を置いた。スープはすっかりぬるくなっている。
 さてスープを済ませて、次に出てきたのはどっさりのムール貝とじゃがいもだった。この地方は料理が良いので名高い。こと秋から冬にかけて出回るムール貝は有名である。
「これを見ると、レイドックにいることを実感せざるを得ないな」と、貝の山を前に呆れているのか感心しているのかわからないような口調でテリーは言った。「いったいこの国のごみ捨て場には、春までにどれだけの貝殻が積みあげられるんだろう」
「それはあなた、貝殻の上に街ができてるんですよ」とフランコ。
 テリーがつい城壁のむこうに広がる市街に目線をやったので、レックは噴きだした。
「お城の基礎はさぞや盤石だろうな。王冠はさしずめ貝殻ぼうしだ。──貝殻で思いだしたが。…」
 兵士長は王子にみなまで言わせることなく、ああ、失礼しました、と頼まれていたものを取りだした。きれいな虹色に光る白い貝のカフスだ。王子はリネンのブラウスの袖口を留めていた透明な石のカフスを外し、渡された貝のものと取り替えた。その垢抜けた所作も身なりも、いかにも貴公子然としている。
「今日の演習では、なんとしても剣を持たれないおつもりですな」
 兵士長は少し残念そうに言った。
 それを聞いて、テリーはあからさまに嫌な顔をした。
「なんだよレック、戦わないのか? 道理でピクニック行くみたいな格好してやがると思った。下手ッぴ兵士の相手ばっかりさせられても、こっちはちっともおもしろくないぜ」
 彼の言い草に、兵士長はさすがに困った表情になった。
「あなたにあっちゃ敵いませんよ。レコルダンス殿下、殿下の兵士たちの名誉のためにも、テリー殿と見本試合をなさってはいかがです? みな期待しています」
 しかしレックは澄まして「わたしは検分役だ」と言っただけだった。
 テリーは意地の悪い笑みを浮かべた。
「はん、英雄を崇拝する兵士たちの前で、みっともない姿は見せたくないわけだ」
「それに、王子を慕う城勤めのうら若き乙女たちにもですよね」と兵士長が言い足した。
「うるさいなあ。どだいテリーが出てきたら、うら若き乙女からしわしわの婆さんまで、二枚目の剣士様に夢中になっちまうだろ」
「まさか! おふたかたとも、国中の誰にも慕われております」と兵士長。
 ちぇ、とレックは駄々をこねた。
「やってもいいけど、練習用の剣はお断りだからな!」
「真剣で試合なさるのですか? ではレイピアの先止めを準備させましょう」
「いいや。わたしは断然、ラミアスしか使わないぞ」
 フランコ兵士長はさすがに呆気にとられたようだったが、テリーは鼻で笑っただけだ。
「オレはなんでもいいぜ。しかしそっちがラミアスなら、雷鳴の剣でなきゃ張りあわないな」
「はあ、なるほど。……それは、わたくしもぜひ拝見させていただきたいものです。殿下はラミアスの剣を手にされたとき──まったくもって、じつにお強いですから。…」
 フランコはなにか記憶を蘇らせたかのように、ほんの少しだけ身をすくませた。
「恐るべきは伝説の剣だな」と、気もなさそうに王子は言った。
 そもそも旅していたころから、レックはさし迫った必要のない限りラミアス以外の剣を握らなかった。相性というよりは、単に興味がなかったのだ。一方のテリーは機に応じて、あるいは純粋な好奇心で、ごく手軽な短剣からおよそ人間むけとも思われない牙みたいな妙な武器まで、自在に使いわけていた。その点においては、テリーのほうが(珍しく)よほど器用だったといえる。
「オレの引きたて役で悪いね」とテリー。
「バカ言え、叩きのめしてやる」
「ふん、そうこなくちゃ」
 三人は声をあげて笑った。
 そうこうするうちに大量のムール貝もついにすべて貝殻となり、給仕が次の皿を整えはじめた。メインディッシュはマルベリーを添えた鴫だ。

 二時になると、広場の木陰で小編成の軍楽隊が余興演奏を始め、演習場にしつらえられた客席にお客がどんどん入ってきた。とくに招待された貴人のあるでもない。みな気楽に若き英雄殿下の精悍な姿を見にきているのだ。誰も思い思いにめかしこみ、鮮やかな赤色の飲みものが入ったグラスを手にしていた。客席のわきのスタンドで、レイドック名産の透き通った赤いビターリキュールが振る舞われているらしい。
「そろそろ支度しないとな」と、レックは胸壁の狭間から広場を見おろしながら言った。
「おい、そんなに身体を乗り出したら──」
 テリーがとがめるまでもなく、テラスに立つ王子を誰かがすぐに目ざとく見つけてしまった。下からわあわあと賑やかしがあがると、レックは愛想よく手を振ってから顔を引っこめた。
「必要悪だ」と言って、彼はにやっと笑った。「さあ、われわれも下へ降りよう。テリー、そのくたびれた旅装でいいの? 兵らはみんな、昨晩のうちに服の破れ目を繕って盾もぴかぴかに磨いて準備してるよ。着替えを用意させようか? きっと二枚目がきわだつぜ」
 テリーは肩をすくめた。
「いらない。おまえこそ、そのピクニックみたいなシャツをなんとかしろよ」
「そうですよ、殿下。試合なさるのであればお召し替えになられてはいかがです?」
 兵士長の問いに、王子は往生際悪く首を横に振り、白いブラウスの上に略装用の青い襟巻きをくるりと巻いた。上等の絹がすべらかに光って、彼の青い髪によく映えている。
「……おいフランコ、そのしかめ面をやめたまえ。試合はしますよ。面倒だから、飛び入り参加ってていにしといてくれ」

***

 三時きっかりだった。歓声のなか、演習場の正面にしつらえられた主催席に、フランコ兵士長と王子が姿をあらわした。簡易的な銀の天蓋の下には、マホガニーの陣中床几が並べられている。そしてもうひとり、予告されていない人物──青い旅装のやや小柄な青年が王子のすぐわきに立っていることに気づいて、客席はにわかに色めきたった。──おい、ありゃ例の「偉大なる探索」のお仲間じゃないか。 ──凱旋のとき、たしかに彼を見たわ。ものすごい美男子だったから覚えてる。 ──それで、魔王と渡りあうほどの使い手なんだろ? ──天は二物を与えず、ただし例外なき法則はなしってこった。…
 レックはテリーに流し目くれて、意味ありげに笑った。テリーは苦々しげに舌打ちした。
「勘弁してくれ。……言っとくが、純然たる剣術試合以外のことはなにもしないからな」
「ああ。純然たる剣術試合だけに協力してくれたら充分だよ」
 王子は相手の肩をぽんと叩くと、天蓋の外へすたすたと歩み出た。左手に、客に振る舞われているものと同じ赤い酒の入ったグラスを持っている。とたんに注がれる衆目のうちにあって、若き偉丈夫の存在感は軽やかかつ圧倒的である。たいしたもんだ、とテリーはこっそり舌を巻いた。王子が右手をほんの少し上げると、会場はしんと静まり、誰もが彼の言葉を聞き漏らすまいと耳をそばだてた。王子の声は明るくよく通ったし、おまけに空には風もなかった。それでもきっと後ろの人までは聞こえないかもしれないなとテリーは考えた。それほどの熱気だったのだ。
「満場のみなみなさま、ごきげんよう。ようこそ、レイドック城へ! みなさんとともに、ここに昼下がりのひとときを過ごすことを、心から喜ばしく思います。また、われらがレイドック兵団諸君とともに本日の剣術演習を開催する運びとあいなったこと、重ねて喜ばしく思います。この場に集う兵士諸君が日ごろの鍛錬と研鑽の成果を発揮し、お集まりのみなさまに、持てる力と技をおおいに披露するよう期待します」
 王子はいちど言葉を切り、グラスを高く捧げた。客席も彼に応じて、みな赤い酒の注がれたグラスを捧げ持った。
「ここに杯を挙げて、レイドックの繁栄とすべての国民の幸せを祈ります。──どうぞ、お楽しみください」
 ほろ酔いの客席はかかとを、兵士らは槍をいっせいに打ち鳴らして喝采を飛ばした。王子は優雅に会釈すると、天蓋の下へ戻ってきた。
「さて。しばらくはおまかせだ、フランコ」
「ええ! ご照覧あれ!」
 いかにも気合に満ちた面持ちで、兵士長は練習用の剣をつかんで出ていった。テリーも付きびとから細身の剣を受けとった。うすむらさきの涼しい目もとが、かすかに熱を帯びている。
「あの男はおもしろそうだ。おいレック、先に行ってるぜ。逃げるなよ。──雷鳴の剣はここだ。やるときは持ってきてくれ」
 右手に握った剣をヒュ、とレックの鼻先で振り抜いてから、彼は兵士長のあとを追った。

 兵士長はともかく、テリーでさえも今日の仕事の眼目をよく理解しているようだった。魔物を相手にするときは極端に型破りで強硬な戦いかたをする彼が、まるで形稽古の手本のように流麗な剣さばきで兵士たちの相手をしている。あんまりそつない身のこなしなので、どうあっても兵士らが遊ばれているように見えてしまう。城の兵士団としてはいささか体裁悪いといえなくもないが、美丈夫の活躍にお客らはたいそう喜んでいることだし、まあ良しとしよう。
 まったく、好きだよなぁ、とつくづく思う。兵士長もテリーも、市井のみんなも。強いものは美しい。強くあろうと鍛錬する姿もまた美しい。そしてだれもが、まっすぐな闘争心のぶつかりあう場を求めているのだ。
 やがて、広場のまんなかで、ここまで負けなしのふたりが対峙した。フランコ兵士長とテリーだ。観客が固唾を飲んで見まもるなか、ほかの兵士たちも演習を止めて集まってきた。この大一番を見逃す手はない。どちらが強いんでしょうね、と近くでだれかのささやく声がして、レックは隣の席に無造作に置かれた雷鳴の剣をちらりと見やった。──その答えは、間違いなくテリーだ。
 参ります、と兵士長が鋭く叫んだ。その足が地を蹴り、目にも留まらぬ速さで相手に打ちかかったが、相手はほんのわずかな所作で打撃をいなしてしまった。三度撃ちあい、いったん間合いをとり、即座に今度はテリーが踏みこみ、ふたたび三度切り結ぶ。しかし四度目はなかった。ひらりと身をひるがえしたテリーの剣が、相手のうなじを平打ちしたからだ。わずか三十秒の立ち合いだった。ああ、くそ、と兵士長は小さく毒づいたが、すぐに剣を投げて「参った」と宣言した。一瞬の沈黙のあと、会場がいっせいに嘆息し、ついで広場は試合をたたえる拍手と足踏みと歓声につつまれた。──強いものは美しい。そして、美しいものが強いとあれば、みなが羨望の眼を向ける。
「おみごとでした、テリー殿」
「そっちもな。……これで、あんたのとこの王子さまも引きずりだせるかな?」
 二人は握手をしながら、共犯者のように笑いあった。

 さて、ピクニックに行くみたいないでたちのレックをどうそそのかそうか。…
 テリーがそんなことを思いめぐらしているうちに、まわりの兵らがふたたび歓声をあげた。王子殿下が広場へ出てきたのだ。
「やあ、兵士諸君! すばらしい演習をありがとう。テリー、フランコ、どうもご苦労さま。みごとな健闘でした」
 兵たちは元気よく武器を打ち鳴らした。
「レック、──」
 テリーがなにか言いかけたのを手で制して、レックは言葉を継いだ。
「しかしみんな、青い閃光にはすっかりしてやられたな。さすがに最強の名は伊達ではない」
「いいえ、殿下! お言葉ですが、『みんな』ではございません」と兵士長。「われらがレイドックには、まだおひとり、だれよりもお強い英雄がいらっしゃる。──そうだろう、おまえたち?」
 たきつけられた兵士らは、みな口々に敬愛する王子の名を叫んだ。
 そうくると思ったよ、とレックは観念したように笑った。
「結構。おい、得物をたのむ。……どうなってもしらないからな」
 兵士長は即座に、ふたりの英雄による見本試合を宣告してしまった。客席は大喝采だ。兵士らが遠巻きに取り囲むなか、あらかじめ申しつけられていたとおり、従者がラミアスの剣と雷鳴の剣をうやうやしく運んでくる。演習場はおおいにざわついた。──見ろ、殿下のめしものはラミアスだぞ! ──世界を救った伝説の剣だ。まさか、あれでやるのか?
「テリー、いまさら言うのもなんだけど」と、青い絹の襟巻きを外しながらレックが言った。「ちょっとアンフェアじゃない? おまえは演習に参加した直後で、疲れてる」
「あの程度で疲れるかよ。ほんの肩慣らしさ。レックこそ、準備運動もなしでいいのか?」
 レックは鼻で笑った。従者に襟巻きを手渡し、替わりに抜き身の剣を受けとる。──ラミアス、世界のうちで彼だけに許された剣。この剣を手にするのはずいぶんひさしぶりだったが、まるでつい五分前まで肌身離さず握り続けていたみたいによくなじんだ。いったい武器というやつは、どんなたぐいのものであれ、手にした者の精神を高揚させるものだ。しかしラミアスだけは、いかなるときも彼の心を平穏にさせた。生死をやり取りする瀬戸際にあって、この剣を構えた瞬間に、わきたつ怒りも惑いも憤りもみなかき消えた。ただおのれの為すべきことを成せと静かに語りかけてくるのだ。
 いっぽうのテリーは、こちらも慣れた雷鳴の剣に持ち替えて、片手でビュンと刃を鳴らした。練習用サーベルよりよほど重いにもかかわらず、半分も軽いように思える。そのまま剣を握った手を伸ばして、なめらかな刃を相手の刀身に当てれば、カンと心地よく張りつめた音が響く。──あのころとなにも変わらないままだ。視線をよこしたレックに、テリーはいかにも皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「七面倒なもんだな、身分ってやつも組織ってやつも。やりたきゃやる、で済むものを」
「やりたきゃやる、で済むものなら、テリーにだって王さまくらい務まるよ」
「フフン。さかだちしても無理だしごめんだぜ」
「──おふたかた、用意はよろしいか」と、審判を務めるフランコ兵士長がふたりに距離をとるよううながした。
「おい審判。ここではどこまで技を使って良いんだ?」とテリー。
「だめだよ!」と、レックがあわてて横から口をだした。「地面に穴あけてみろ。あとで修繕班から大目玉だ」
「修繕費用の算段をふくめて、そのあたりはおまかせしますよ。でも、観客をあまり怖がらせないでくださいね」と兵士長は笑った。「……さあ、よろしいですか? 双方、かまえ。──はじめ!」

 得物が真剣だから、もちろんまともに振るってはけがをする。ある程度は形のさらいあいになるだろう。とはいえ、テリーは先ほどまでとは別人のように奔放な太刀筋でどんどん打ちかかってくる。いなしながら半歩、さらに半歩とずり下がったところで、レックは後ろに引いた左足にぐいと力をいれた。テリーの動きを読みきるのはむりだ。受け身に回れば差しこまれる。踏みこめ、踏みこめ。
 強く撃ちあった瞬間、ふたりの胆力がわずかな魔力として放出され、ドンと衝撃がたった。突風にまかれながら、あーあ、芝生が、とレックはうめいた。修繕班の園芸係はとびきりのがんこじじいなのだ。テリーは飛びすさって間合いをあけた。
「おいレック! 尾を踏めば頭まで、だぜ。もう修繕費はあきらめたらどうだ?」
「…………そうだな。怒られたら謝るまでだ」
 王子は頭をふって、修繕班のおやじの渋面を頭から追い払った。柄を握る両手にあらためて力をこめる。おのれの為すべきことを成せ。目線を上げた先で、テリーが笑っている。
 半端は無しだ。
「審判、危ないから離れてろ! ──いくぞテリー!」
 どなるなり、レックはラミアスの剣を上段にかまえた。白いブラウスの袖口で、貝のカフスがきらりと光った。テリーは目を見開いた。──この構えは。乾いた晴天の空に霹靂がはしり、ラミアスが共鳴りする。均衡を崩された電荷に大気がふるえている。ぞわ、とテリーの肌があわだった。稲妻斬りだ。まともにもらっては吹っ飛ばされる。定石の対処法はいくつかあるが、しかし今の彼にとっては相性のよい技でもあった。なにしろ手にしているのは雷鳴の剣だ。ただすなおに刀身で受ければすむ。──レックも承知のうえだろう。まずはお客にごろうじろといったところか? おもしろい。…
 身を引いてめいっぱい伸ばした腕の先、なるたけ身体と離れたところで、テリーは相手の打ちこみを受けた。高い位置から振り下ろされたラミアスに、雷鳴のきっさきが大きなモーメントではたき落とされる。あいかわらず鷹揚で迷いのない剣筋だ。まるで乾いた海綿が大海を思いだしたように、雷鳴の剣が嬉しそうにバリリと鳴った。二振の刃の接触した一点から、不自然な静電ポテンシャルが急激に解消されてゆく。青白い光がなんどか鋭くひらめき、観衆はどよめいた。
「ごあいさつだな」と、大きく距離をあけ剣を構えなおしながらテリーは笑った。「準備運動は終わったか?」
 王子は、まつげにからんだ汗をブラウスの左袖でぬぐった。ゆったりした薄手のリネンが風にはためく。格闘には場違いなその装いの品の良さが、かえって奇妙に彼の強さをいろどっている。生まれは争えない。

 
 

続きます