61. キスにかける時間

ひとりで馬車の番をしていたテリーの元へレックが帰ってきた。「ただいま。みんなは?」「まだ誰も」テリーは幌の後ろを開け放ち、荷台から足を垂らして本を読んでいる。ちらりと視線を上げただけで、すぐに手元の活字に意識を戻してしまった。レックは彼のすぐ隣に腰かけて、伏せた瞳を下からわざとらしく覗きこみ、いかにも迷惑そうな相手の表情にも臆さずに「ただいま」と繰り返した。

テリーは目をぱちぱちさせたが、それから気まぐれのように顔を寄せて、レックの唇にほんの短いキスをした。



62. 帰りたくない

日付も変わろうというころ、レックは宿の一室で乱れたベッドに寝転がり、テリーが身なりを整えているのをぼんやり眺めていた。テリーの個室である。さっさと服を着て隣の部屋に戻らねばならないのはレックのほうだ。だらだらシーツにくるまったままの彼を見やって「寝たいから退いてくれ」とテリー。…素っ気ないやつめ。レックは唇をとがらせて「まだ帰りたくない」とわがままを言った。「終わったらさっさと帰れって、ひどくない?」半ば強引に相手の腕を引くと、テリーは呆れ顔でベッドへ潜りこんできた。「面倒なやつだな。腕枕してほしいのかよ」「すみませんね。まあ腕枕はいらないな」

結局、シングルベッドでふたり朝方まですごしてしまった。



63. 失われた世界(記憶喪失テリー)

薄紫の瞳が所在なげに揺れている。

剣の扱いかたまで忘れてしまったと言う。まさか、と思ったが抜身を片手で上段に振りかぶって「わア重いな」などとのたまうもので、さすがに取り上げた。けがのもとだ。

オレ自身も記憶をあらかた失くしてしまったことがあるから、彼の不安はよく解った。ままあることさと教えてやったら、彼はいくらか安堵したようだった。小首を傾げて「あんたはそんな目に遭いそうに見えないがな。髪型が能天気そうだからかな」などと悪びれもせずに言う。記憶を失おうがテリーの本質はやっぱりテリーのままである。

オレの記憶の多くが今なお失われたままだということは伝えないでおいた。



64. きみの失われた世界(記憶喪失テリー)

ひどく憂鬱げな顔をしているもので、つられてこちらまで思考が良くないほうに向きそうになる。自分が剣士だということさえ忘れてしまったらしい。

テリーは最強の剣士なんだぜ、と言うと目をぱちくりさせて「まさか」と返された。「ぼくは謙遜を美徳だと思わないが、それにしたってきみのほうがよほど強そうだ。髪型もずいぶんらんぼうだし」

記憶を失くしても本質は変わらないらしい。思わず吹き出して、ついでこめかみを小突いてやったら相手は困ったように曖昧に笑った。



65. それぞれの力量

カン、カンカン!たった三度撃ち合っただけで勝負はついてしまった。

「おまえ、真剣でないと信じられないくらいポンコツだな」テリーは練習用の刃引きしたサーベルでレックの頭をぺしと平打ちにした。テリーが強すぎるんだろ、とレックは苦笑いした。「オレは純粋に剣の技だけで戦うタイプじゃないの」

テリーはにやっと笑った。たしかにレックは剣士でも魔法使いでもない。いつだって剣も魔法も片手間にこなしながら戦況を掌握している。実際のところ、リーダーの働きには内心舌を巻いているのだ。しかしもちろんそんなことは口にしなかった。

「ラミアス佩いてるときはだいぶマシだがな」とだけテリーは言った。



66. 公然の秘密

レック、と雑踏の中で呼びかけられた。テリーの知らない声だ。呼ばれた当人は、テリーの少し前をハッサンと並んで歩いている。おしゃべりに夢中で気付いていないらしい。

「オイ」とレックの肩をたたいてやると、レックは「なあに?」と笑顔で振り向いた。しかし彼の視線はそのままテリーを通り過ぎ、すぐ後ろの誰かさんに釘付けになってしまった。

「やっぱり君か! やあレック、久しぶり」

声の主は巻き毛の青年だった。年の頃は自分たちとほとんど同じだろうか。真っ黒い長衣の上に、これまた黒のガウンを羽織っている。誰が見たって学生だとわかるいでたちだ。

「ジュリー! こんなところで会うとは驚いたな!」



67. 事象の振り返り、反省

腰を抱き寄せられて僅かにのけ反ると、レックはしめたとばかりに剥き出しになった首元へ唇を落としてきた。くすぐったさに笑ってしまったが気にも留めないらしい。生暖かい舌が喉仏をなぞり、ついで頸動脈を食まれて、今度は肌が粟立った。跡を付けていいかと訊かれ、拒まなかったのは何故だったか。



68. 事象の追想、あくび

細腰を抱き寄せるとテリーは逃げるように上体をそらし、自ずから首元が露わになった。その白い喉にキスしたら、いつもより少しだけ高い吐息を漏らす。唇に動脈の微かな拍節を感じて思わず息を詰めると、相手は身をすくめた。取って喰うような心持ちになる。跡を付けて良いか訊ねたが返事はなかった。



69. 剣士の見たゆめ

夢だと判っていたから、取り乱すこともなかった。差し向かいのレックの手には細身のナイフ。手袋をなぜか外していたことだけ、印象的だった。黙って振りかぶり、オレの喉に突き立てる。痛みはない。血さえ流れない。ただ、彼が殺すことを望んでいるのかと思い、さればとオレは目を閉じてその場に倒れた。



70. 王子の見たゆめ

人をあやめる夢を見た──それも、テリーを。短刀で刺した瞬間に目が覚めた。酷い汗だ。すぐ隣で眠っているはずのテリーを見やれば、起こしてしまったのだろうか、目を開けている。

嫌な夢を見た、とテリーは呟いた。にわかに頭に血が上って強く抱き締めると、身じろいでこちらを見た相手の瞳は月光にひどく濡れていた。