寒い国の、寒い冬の、寒い夜のはなし。

 小さなおうちに男の子が住んでいた。名前はテリー。青い色が好きで、仲良しのねえさんがいる。
 昼間、町の氷祭りに出かけたとき、テリーは知らないおじさんからくるみ割り人形をもらった。その人は黒い服を着て白い髭を生やしていた。黒い服の人はお祭りの人ごみの中にとてもたくさんいたし、白い髭の人もやっぱりたくさんいたから、特にあげつらうほどのことでもないけれど、ほかの特徴は覚えていなかった。──そもそもおじさんじゃなくておじいさんだったかもしれない。
 それはすごく変な人形で、あごがかくかくして、口にくるみを挟んでパクンと割るようになっていた。つごう悪くおうちにくるみがなかったから、テリーはただ無為にあごをかくかくさせて遊んだ。間抜け面が強調されてなかなかおもしろかった。それからほかのおもちゃと並べて戦争ごっこもした。これはたいそうおもしろかった。彼はひとり遊びが得意なのだ。キングスライムのぬいぐるみが率いる悪の軍団と、くるみ割り人形が率いる正義の同盟軍団(これはいろんなしなものによるごちゃ混ぜ部隊で、たとえばカエルのぬいぐるみや馬なしの馬車──馬はけっこう前に失くしてしまったので──やスリッパで構成されている)との壮絶な合戦もいよいよ佳境に入ろうとしたとき、残念ながらミレーユ姉さんがおやすみを言いにきた。つまりすぐに明かりを消して寝なきゃいけないってことだ。
 テリーは急いでおもちゃたちに和解を促して、ぜんぶお片付け箱に投げ入れて、ベッドにもぐりこんだ。
 ただくるみ割り人形だけは片付けてしまわないで、おふとんに持っていっていっしょに寝ることにした。

 真夜中にテリーは目を覚ました。
 近くでなにかがかさこそ動き回っている音がした。なんだろう、ネズミかな。気になったけど、テリーはベッドの中でじっとしていた。夜におふとんを抜け出すのは悪いことなのだ。そういうことをする子は、ネズミの王様に気に入られて鼻をかじられてしまうのだとミレーユ姉さんが言っていた。
 テリーは目をつむって聞き耳を立てた。かさこそする奴らはだんだん増えていくようだった。そのうち、なんだかもっと別の音が混じり始めた。とたん、ぱたん。きいきい。どうしよう、これは明らかにただごとじゃない。
 そのときテリーは、寝るときに抱きしめてたはずのくるみ割り人形がベッドにいないことに気付いた。床に落としちゃったのかもしれない。たいへんだ、かさこそする奴らに持っていかれちまう。それで彼はベッドを抜け出した。もしネズミの王様に出会ったら大急ぎで顔を隠すことにしよう。…
 暗くてよく見えないもんだから、テリーはカーテンを開けた。月明かりに照らされて部屋の様子がよく見えた。驚いたことに、床の上でネズミの大群とテリーのおもちゃ部隊とが戦っていた。
 おもちゃたちの先頭に立っているのは、くるみ割り人形だった。いちばんでっかいネズミと剣でやりあっている。まちがいない、あれはネズミの王様だ! そのとき、王様がぱっとテリーのほうを見た。テリーは王様と目が合ってしまった。それで彼はすっかり慌てて、王様にスリッパを投げつけた。王様はきいと鳴いて、ぴょんと飛び上がって、壁の穴に向かって逃げていった。ネズミどもは総崩れ。おもちゃたちの勝利に、みんなわあわあ喜んだ。テリーもいっしょになって、おもちゃたちと手を取りあって喜んだ。
 ……手を取りあって? なんてことだ、彼はすっかり小さくなってしまっていた。家具はとてつもなく大きいし、部屋の天井ときたら高すぎて見えないくらいだ。
 彼がおやおやと思っていると、おもちゃたちの中からくるみ割り人形が進み出てきた。
『どうもありがとう、テリーくん』
 彼は深々とお辞儀した。
 くるみ割り人形が再び頭を上げると──そこには間抜け面の人形ではなくて、立派な身なりの凛々しい青年が立っていた。
「やあ、やっと魔法が解けた。オレの名前はレック。ええと、すごく遠くの国の王子です」
「おじさんが? ほんとかな」
「ほんとです。悪い魔法使いに呪いをかけられてたのさ」と、青年は朗らかに言った。呪いなんて言葉とはほど遠いようすにみえる。「きみにお礼がしたい。それから、オレはおじさんじゃなくてお兄さん」
「ふーん。お兄ちゃん」
「ああ、それならもっといい」
 青年はにこにこして、もういちど優雅にお辞儀をしてみせた。
 それから彼はテリーの手を取って、壁の鏡に向かって歩きだした。大また歩きでずんずん行って、ひゃー、ぶつかる!
 しかしその瞬間、二人は鏡の中に消えた。

 遠くで時計が真夜中の十二時を告げ始めた。



 鏡の中の世界は白い光に包まれていた。
 月の光にしてはずいぶん明るくて、本だって読めそうなくらいだ。それに急に寒くなった。気付けばあたりには雪が舞っている。部屋の中にいたはずなのに、どうなってるんだろう。
 テリーはスリッパがかたちんぼで歩きにくいもんだから(もう片方はネズミの王様に投げつけてそれきりだ)、ぽんと横に脱ぎ捨てた。ちょっと足が冷たいなあと思っていたら、彼の手を引いていたくるみ割り人形の王子が振り返って、ああごめん、とテリーを抱っこした。それでそのまま歩いていった。
 雪は相変わらずちらちら舞っていた。しかも次第にそのひとひらが大きくなっていった。大きくなって大きくなって、もうテリーの頭くらいある。
「おっきな雪だね」とテリーは言った。
「ちっちゃな雪の精だよ」と青年は答えた。
 とたんに、ひらひらしていた雪はみんなヒトになった。彼らは白い小さな靴をくれたので、テリーはそれを履いて、その先はまた手を引かれながら自分で歩いた。

 歩いていくうちに空気が温んできた。芳しい匂いもしてきた。一面の銀世界は、いつのまにかすっかり春景色になっていた。
「もうすぐオレの国です。お菓子の国だよ」と青年が言った。
 それでテリーは怪しんだ。知らない人についていっちゃだめよ、例えばお菓子をくれてもよ、とミレーユ姉さんに注意されたことを思い出したからだ。
「あんたはユウカイする人?」
 青年はきょとんとしたが、すぐに面白そうな表情になった。
「そうだね、オレはユウカイの王子かもしれないぜ。どうしようか、テリーくん」
「じゃあついて行かない。お姉ちゃんに怒られるし」
 青年は声を立てて笑った。
「嘘だよ。オレは誘拐する人じゃありません。ほら、みんながきみを迎えに出てきた。耳を澄ましてみなよ」
 テリーが耳を澄ますと、奇妙な歌が聞こえてきた。

『あか、しろ、きいろ、みずいろ、みどり、ばらいろ、むらさきよ。こんぺいとうは七色』

「……だってさ。こんぺいとうは七色なんだと。ぜひ覚えとこう」と王子は言った。
「青いのはないの?」とテリーは訊いた。
「うん。青はオレの専売特許」
 王子の髪はきれいな青色だった。テリーは『センバイトッキョ』って言葉の意味を知らなかったけど、相手の言いたいことは分かった気がした。それで、ふうん、とだけ返事した。

 お喋りしてるあいだに、テリーと王子のまわりにたくさんのヒトが集まってきた。

『湯沸かしをかけましょ、ぐらぐら。熱いお茶を淹れましょ、たぷたぷ』

 そんなふうに歌いながら、みんなはふたりにお茶を出してくれた(たぷたぷ、なんて言うからカップにたぷたぷお茶が入っててうっかりこぼしやしないかとテリーは心配したけれど、別にたぷたぷするほども入っちゃいなかった)。
 彼らはいろんなお菓子でもてなしてくれた。みんな歌が大好きらしくて、チョコレートをくれるときはチョコレートの歌を、リコリスあめをくれるときはリコリスあめの歌を、そのほかテリーの見たことないお菓子をくれるときは見たことないお菓子の歌を、いちいち歌ってくれるのだった。
「みんなあんたの国のヒト? 歌が好きなんだね」とテリー。
「そうだよ。朝から晩までこんな感じさ」と王子。
「朝から晩までずっとお菓子を食べてるの? 虫歯にならないのかな」
「それはまあ、ぎりぎりだけど……子供はそんな心配しなくていいの」
 王子はテリーのあたまをぺちんと叩いた。叩いたついでに「めずらしい色だねえ。ふわふわだし」とテリーの髪の毛を褒めてくれた。
「お兄ちゃんの髪はきれいな青だね。ぼく、青色好きだ」
「そりゃ結構だな。じゃあきみには青色の使用権を貸与しよう」と王子は偉そうに言った。
 テリーには彼の言葉の意味がよく分からなかったけど、なんとなくたいしたことは言ってない気がした。それでやっぱり、ふうん、とだけ返事しておいた。

 そうこうするうち、不意に音楽が華やかになった。三拍子の軽快なワルツにあわせて、みんながいっせいに踊り始める。

『香り立つ風ときみよ、咲く花に寄せて、歌おう、踊ろう』

 王子は立ち上がって手を差し出した。
「オレたちも踊ろうよ。ほら」
 でもテリーはワルツのステップなんて知らないから、困ってしまった。
「踊ったことないんだ」
「大丈夫だよ。どうせみんなめちゃくちゃさ」
 テリーが見回すと、たしかに誰も彼も大声で歌いさけびながら、好き勝手に飛んだり跳ねたりしてるようだった。彼は安心して王子の手を握った。それから二人はでたらめにぴょんぴょん踊った。

『まわれ、まわれ、すみれとさくらの季節、めだかとおたまじゃくしの候』

 美しい旋律だが、とっても変てこな詩だ。
「サクラってなんのこと?」
 テリーには聞きおぼえのない言葉だった。
 花の名前、とだけ答えて、王子はお空を指差した。
 見上げれば、たくさんの白い花びらが雪みたいに舞っていた。まるで吹雪だ。これがサクラかな。生まれた町では見たことないけど、世界のどこかには春になるたびこんな景色の広がる国があるんだろうか。──大きくなったら、そんなとこにも行ってみたいな。

『さよなら、さよなら、こんにちは。出逢って別れて、また出逢おう』

 音楽はますます盛り上がり、みんなはひとつの大きな輪になった。

『あなたに捧げる、花咲く春の歌!』

 王子はテリーを抱き上げて、宙にぽーんと投げた。
その瞬間、ざあっと花びらが吹きつけてきて、まるで周りが見えなくなってしまった。
 サヨナラ、と声が聞こえたような気がした。さよなら、とテリーも叫んだ。



 遠くで時計が真夜中の十二時を告げ終えた。

 テリーはベッドの中にいた。
 くるみ割り人形はちゃんと彼の腕の中に収まっていた。さっき開けたはずのカーテンは閉まってるし、雪の精にもらった白い靴も履いてない。テリーは起き上がってカーテンを開けてみた。月明かりに照らされた静かな部屋。おもちゃもネズミもいない。鏡を覗いても、眠たそうな自分の顔が映っているだけ。…

 夢だったのかな。テリーはぼんやりそう思った。でもすぐに、ベッドの脇のスリッパがかたちんぼなのに気付いた。
 やっぱり夢じゃなかったのかな。テリーは首を傾げた。
 だけど考えても分からないし、それに夜中にベッドを抜け出すのは悪いことだから、テリーは気にしないことにして、またベッドに戻った。
「おやすみ」と彼はくるみ割り人形に言って、目を閉じた。
 そしてすぐに深い眠りに落ちていった。 




おしまい