六月二十八日、あやめの花の咲く候。

 色濃い夏の気配に薄い雲の広がる晴れた朝だった。
 レイドックの東の国境近く、深い森と無数の湖沼が広がる美しい土地に立ち、テリーは途方に暮れていた。
 来いと言われて素直に来てみれば、指定された座標はまるでひとけのない森の中だった。──そもそもいつなんどき、という情報が抜けていたのだ。発つ前に少しは考えてみりゃ良かったな。こうなることは当然予想できたはずじゃないか。

「偉大な探索の旅」(と世間に呼ばれている)から帰還した「偉大な探索のお味方たち」(と、これも世間からそう呼ばれている)が解散したのは四月の最後の日だった。ちょうどふた月前のことだ。それからテリーはふたたび放浪に出て、みんなとは一度も会っていない。
 そして昨日、彼は別れの晩餐会いらい初めてレイドックへ足を伸ばした。レックから拝借していた、先の旅で手に入れたいくつかの貴重な道具を返しにきたのだった。

 さて、テリーがお城を訪ねて王子に取次ぎを頼もうとすると、面会受付の若い兵は気の毒そうな顔をした。
「おやテリーどの、ご存知ありませんでしたか。ただいま殿下は休暇でおいでになりません」
「休み? 何時ごろ戻ってくるんだ」
「何時、と申しますか……二週前よりお出かけで、七月の中ごろまでご帰還なされませんが」
 なんだそりゃ。テリーは顔をしかめた。
 だいたい、六月のうちに必ず返却しにこいと言ったのはレックだ。よもや約束を忘れてしまったのだろうか。──アイツそんな性質じゃなかったんだがな、と戸惑っていると、奥から大急ぎで伝令が駆けてきて、王子殿下から手紙を言付けられております、と真っ白の封筒を差し出したのだった。

 手紙には青いインキでたった一行、座標が書きつけられていた。
 森の中で、テリーは再び手紙を開いて地図とコンパスを見比べてみた。この場所で間違いない。……まあ、ずいぶん気持ちの良い湖水地方だし、しばらく滞在してみるのも悪くないか。ため息をついて無愛想な手紙を額に押し当てると、国章の透かしが入った便箋からはかすかに香水の匂いがした。記憶の深いところに染みついた、テリーの感情の裏側をざわつかせる匂い。…
 まとわりつくなにがしかを払うように首を左右に振ると、彼は持ち物をかばんにしまいこみ、再び古い道を辿って歩き始めた。道は湖へと下っている。

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 湖のほとりに建つ休暇小屋の窓際で、レイドック王子は熱いお茶を飲みながらぼんやり水面を眺めていた。
 湖の本当の名前は知らない。ただ「夏のうみ」と呼ばれていた。レンガと木とタイルでしつらえられた慎ましやかな休暇小屋は、王子がずっと幼いころ、妹と二人で夏のバカンスを過ごすために建てられたものだ。湖畔に向かって開けたかぎ型の建物で、居間と続きの小さなダイニング、台所、それにベッドルームが二つとこじんまりしたバスルーム。居間の掃き出し窓から、木立を抜けて湖へ直接向かう長い桟橋が伸びている。離れには使用人のための部屋があり、その隣はボート小屋だった。むかしは兄妹とお付きの者とで賑やかに過ごしたものだ。しかし、ある冬の日に王女が永遠にいなくなってしまってからこっち、王子もこの場所へ来ることはなくなった。ただ建物だけはきちんと手入れされ続けていたようで、なにもかもが変わってしまった今も、まるでかつてのままに建っているのだった。

 レックはお茶を飲み干すと、再び窓から波打ち際を見下ろした。そして──目にしたものに、思わずガタンと卓を鳴らして立ち上がった。
 彼は窓を開け放ち、大声で呼びかけた。
「やあ!テリー! こんなとこまで、ようこそ!」



 二人は桟橋の先っちょに座ってつま先をぶらぶらさせ、水面を渡る初夏の風を身体いっぱいに受けながら、とりとめもないお喋りをした。

「人を呼びつけるのに、ずいぶんしょうもない策を弄したもんだぜ」とテリーは呆れ顔で言った。
 レックはフフンと笑っただけで、否定も肯定もしなかった。テリーをバカンスに誘ったとして、おとなしくついてくるとも思わなかったのだ(それに、ほかの誰かに知られたくなかったのもある)。
「しかし、本当にレックひとりなのか。公人が護衛も付き人もなしとは、よくそんなわがまま通ったな」
「そりゃまあ、無理言ったのさ。途方もなく頑張ったんだし、いいじゃないか。とにかく信じられないくらい疲れ切ってたから、なぁんにも考えずに休もうと思って」
 なるほど、とテリーは素直に頷いた。「悪かないな」
「……あとは、ちょっと内省的になりたかったのもある。戻ったらどうせ息つく間もないほど騒がしくなるし」
「オレは来て良かったわけ?」
「内省的には充分なりつくしたから、もう大丈夫だよ」
二人は顔を見合わせてにやりとした。
「お前、そろそろ人里恋しくなり始めたんじゃないのか?」とテリー。 
「平気さ」 
 テリーは切れ長の目を細めた。 
「……人肌は?」 
「それは、どうだろう」と笑いながらレックは相手を抱き寄せた。「そろそろ隣に恋人がいてほしいって思い始めた、と言えなくもない」 
「へえ。こっちはそろそろ新しいコイビト探そうかと思ってたとこだ」 
「はいはい」 
 憎まれ口を遮るかのように、レックは隣の恋人に口付けた。 



 正午を過ぎた。レックが昼食を支度しているあいだにテリーは湖畔を歩き回り、木苺ときのこ、それに古びた金のメダルをポケットに入れて戻ってきた。 
「やあ、ありがとう、仕事したな」と、簡素な食卓の脇に並べられたテリーの戦果品を見てレックは言った。昼食はサンドウィッチと赤ぶどう酒らしい。パンに乗せられたうさぎのローストに、ベリーのソースが添えてある。 
「木苺はデザートにしよう。しかしこれは(言いながらレックはきのこをつまみ上げた)分からないなあ。食べて大丈夫なの?」             
「いや、見当もつかない。舐めてみたらどうだ?」 
「嫌だよ……ミレーユかチャモロなら毒に詳しかったけどな。まあやめとくか、お前と心中はしたくないし。メダルはそっちで取っといてくれ。まったく、信じられないくらい世界のありとあらゆるところに落ちてんだな!」 

 ここへ来てから、料理やそのほか身の回りのあれこれはみなレック自身ですませている。とはいえ、王子手ずからせっせとうさぎ罠を仕掛けたりグズベリーを摘んで回っているわけではなかった。週末ごと城下に帰還するのが休暇の条件だったので、ついでに食べものやそのほか必要なしなものを調達してくれば良かったのだ。 
「なんだよ、レイドック城じゃ王子はあとひと月帰らないって言われたぜ」とテリーは不服そうな顔をした。 
「城には帰らないよ。卒倒するほど仕事を持ってこられるに決まってるから。城のひとらときたら本当に容赦ないもの、休暇中だろうがお構いなしだ」 
 彼は城下町で適当に衛兵をつかまえて、週の報告書を託しているらしかった。天気のほかは特になにが記載されているでもない「報告書」をもって、王子の健やかな休暇は公然と執行されているらしい。 
 テリーは呆れた顔をした。 
「お前、意外と奔放だったんだな」 
「テリーにだけは言われたかないよ。休息の権利を勝ち取っただけさ、褒めろよ」 
「まあ……そうだな、嫌いじゃない」 
 ありがとう、妙な褒めかただ、とレックは舌を出した。 

 たっぷり時間をかけて食後のお茶を飲んで、二人は再び湖に出た。 
 陽の傾き始めた空を眺めて、テリーは首を傾げた。朝は気持ちよく晴れていたのが、心なしか空気にみずっけを感じたからだ。木々のこずえの連なるすぐ上、空の低いところは、いつのまにやらずいぶん重たい色に変わっている。この地方の初夏といえば、からりとした風の深緑を渡るそれは爽やかな季節だから、訪れて早々に雨に降られるとあってはいささか運が悪い。 
「嫌だな、夜にはひと雨きそうだ」とレックは憂鬱そうな声を出した。 
「日のあるあいだはもつんじゃないか。明日は知らないが」 
「いや、むしろ夜が良くない。小さいころ、雨の夜は湖おばけが出るっておどされたんだ。先々週ここへ来た次の日が丸一日雨で、出たらどうしようかと思っちゃった」 
 ふーん、と興味なさそうにテリー。
「しかしこんな場所で雨に降られちゃすることもなさそうだな」             
「そりゃ泳いでたさ、一日中」 
 テリーは眉をひそめた。 
「……雨の中で?」 
「雨の中で。丸一日泳いだら、疲れ果てて夜は熟睡しちゃった。おばけは出たんだか知らないけど、寝てたから気付かなかったな」 
 テリーはさすがに笑ってしまった。 
「湖おばけとやらがもし我々のゆくてをふさぐようなら、そのときは退治するまでだ」 

 ふたりは街に出て夕食を済ませた。日付も変わろうかというころにようやく小屋へ戻ってくると、はたして湖水地方はひどい雨だった。キメラのつばさは極端に雨天と相性が悪い。少しでも降れば、どうあってもずぶ濡れになってしまう。 
「容易に想定できたとおりの惨状だ」と、ぐっしょり水を吸った帽子を絞りながらテリーはぶつくさ言った。 
「まあ、行水を省略できたと思おう。……タオルはそこ。濡れたものはバスルームに放り込んでおいてくれ。着替えは──」 
「要らないだろ、どうせすぐ脱ぐし」 
 言いながら、テリーはびしょ濡れの服を脱ぎ捨てながらすたすたベッドルームへ行ってしまった。
 レックは目をぱちくりさせた。なるほど、優れた洞察じゃないか。…
 ふたりとも、湖おばけのことなどすっかり忘れてしまっている。

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「旅を終えてからこっち、飛ぶように月日が経ってくな」
 寝室の壁付けジランドルからいちばん長いろうそくを外しながら、レックはひとりごとのように呟いた。ろうそくにオイルランプの炎を移して脇机の燭台に立てると、ランプには真鍮の火消しをかぶせてしまったので、部屋はずいぶん暗くなった。
 レックは寝台の上であぐらをかいているテリーの隣に腰かけた。
「前にしたのいつだっけな。狭間の世界?」
「整理しなくていい、そんな記憶」
 テリーは顔をしかめてレックの額を手刀打ちにした。しかし相手と目が合うとすぐに相好を崩し、両腕をレックの首に回して無邪気に唇と唇をくっつけた。他人との接触を極端に嫌う男だが、ベッドルームではなにかまるきり切り替えてしまうらしい。充足感とほんの少しのあやうさがレックの心をくすぐった。宵越し雨に体温を奪われたせいでふたりともひんやりしていたのが、抱き寄せた素肌はもうずいぶん温かさを取り戻している。
「久しぶりなんだから手加減しろよ」
「オレはいつでも優しいだろ」とレックはくすくす笑った。手加減とは、またずいぶん愛嬌のある単語が出たもんだ。「久しぶりって、会わないあいだも浮気しなかったことをアピールしてみたの?」
 はあ? とテリーは目を見開いたが、すぐに鼻で笑い飛ばした。
「ばか言え。ただの隠蔽工作だ」
「……別にそれでも構わないよ」
 造り付けの寝台はひとりで寝るには充分な大きさだったし、ふたりで腰かけているぶんにも差し障りなかった。でもレックと並んで寝転ぶにはひどく手狭だ。終わったらもうひとつ余っている寝室に相手を追い出して良いものかと、シーツに倒れこみながらテリーは考えた。

 優しさといえばそれまでだろうか。レックがあんまりのんびりことを進めるもので、かえってテリーはくすぶっていたなにかが風に煽られ思いがけず火をあげそうな気がしてならなかった。
 煽り風に続くのはもちろん大波だ。テリーが眉根を寄せたのを見て、レックはふっと口元を緩めた。
「なにがおかしい」
「焦れてるなあと思って」
 解ってるなら、と文句をつけようとしたテリーの口元をレックは指先で制した。
「まあまあ。今日はオレの好きにさせてよ、次はテリーの自由にしていいから。おとなしくしてれば悪いようにはしない」
「なんだそりゃ。うさんくさいな!」
 テリーは笑い出してしまった。
「笑うなよ」と、レックは自分も笑いながら言った。「思いやりをくみ取れっての。ねえテリー、好きだよ! こら!」
「いいから早くしろったら。……いや、もう飽きるまでダラダラすりゃいいぜ。どうぞ朝までやっててくれ。だがオレは眠たくなったら勝手に寝るからな」
 レックは相手からほんの少し身体を離して頬杖つくと、憎まれ口をききながらも楽しげなテリーの顔を間近から眺めた。もとより整ったその容貌が、揺らめくろうそくの薄明かりの下では余計に美しく見える。
「飽きないよ。テリーにも満足しててほしいの」
「……オレ?」とテリーの声がわずかに裏返った。「オレは別に──たいていは満足してるが」
 毎回じゃないけどな、と彼は言い足した。レックの表情があからさまに緩んだのに気付いたからだ。
「お前、たいして上手くもないが妙に良いんだよな。なんでだろな」
「……ヘタですよ、どうせ。いつも思うんだけど、どこの誰と比べてるわけ?」
「レックのそういうところ、ほんとにヤボだと思うぜ」

 レックは往々にして言葉を欲しがる。
 テリーがほとんど文脈さえ紡げなくなったころ、レックは戯れのように「好きって聞かせてよ」とささやいた。
 テリーはわずらわしげな声を漏らした。
 言葉なんか形のない亡霊と同じなのに、と彼は心のうちで考えた。うそぶく風がなにがしの力を持つとも思えないが、そんなもので人は──レックは満たされるらしい。われわれのあいだをつなぎ留めるものが実態なき亡霊に過ぎないとあれば、それはよほど儚く脆い関係じゃないか。でもレックなら、形がなければ壊れもしないからかえって頑丈だなどと言うかもしれない。……それもまた真実だろうか。
 器官を交えて得られる制御できない快感が、ただ純粋な物理的要因のみに依るものでないことくらいテリーにも解っている。だからこそ、レックに抱かれるのは(たいして上手くなかろうが)極めて特別なのだった。羨望、執着、深い慈しみと霧の奥の未来。心は確かに身体とつながっている。正体さえつかめないものを、なぜ彼はこんなにも大切にするのだろう。では自分はなぜ。…
 耳元で名前を呼ばれて、テリーの意識は快楽の底から嵐のさなかへ引き戻された。彼は相手の背に回した腕に力をこめたが、しがみつこうとした手は、しかし汗ばんだ肌の上でするりと滑った。
 口を開くとたやすく言葉は出た。まるで起きぬけにおはようの挨拶をするみたいに。
 あいしてる、とかすれた声で。
 精神と身体を浮かす熱のピークにあったからそんな言葉が出たのか、あるいは言葉にしたせいで気持ちまでつられたのか。テリーには解らなかったし、今さらどちらでもよいことだった。レックめ、満足していてほしいなどとよく言ったものだ。テリーのささやかな手のうちにはとても受け容れきれず、いつだってあふれてしまっているのに。自分の全てを手に入れているくせに、この男はそんなことさえ理解していないらしい。
 ──反則だろ、とレックの呟く声がゆめうつつに聞こえた。

 そのままほんの少しだけ眠りに落ちたテリーが意識を取り戻したとき、レックはすでにふたりの身なりを整えてしまっていた。
 テリーがなにか言うより先に、レックはひどくもうしわけなさそうに「ごめん、つい」と謝罪を口にした。珍しくちょっとしたルール違反を犯したのだ。
「いいよ、もう。ばか」とテリーは肩をすくめた。
 相手の瞳をじっと覗きこんでから、レックはそのまぶたをついばむようにキスをした。
「満足した?」
 テリーは気怠げな視線だけを相手に寄越し、そのままころんと寝返りをうった。
「お前は飽き足りたのかよ」
「そりゃ、テリーが望むなら朝まででも付き合うけど。でも別に徹夜しなくても、明日の朝起きてから改めてすればいいと思うな」
「なるほど。なんだかよく分からないが……じゃあそんな感じで」
「うん、おやすみ」
 レックが掌をパタパタ扇がせると、その指先から少し離れたところ、脇机の上で燃えていたろうそくの炎は音もなく消えた。
 寝台は狭かったが、テリーは(少なくとも今夜は)我慢することにした。



 テリーはなにかきれいな色をした夢から目覚めた。
 窓の向こうの空は明るくなりつつあった。夜半からの雨が名残のように静かに降り続いているが、きっとすぐに止むだろう。寝台の上で上半身だけ起こしてすべり出し窓を三分ほど開けると、湿った空気に乗って雨の匂いがしのびこんできた。雨は嫌いだが、雨上がりの匂いは好きだった。もうすぐ雨があがったらば、朝の森を湛えるのは水蒸気に満ち満ちた清純でかぐわしい大気だ。今日は湖でなく、森の方に出かけよう。
 背後でレックの身じろぐ音がした。目を覚ましたらしい。
 出たのかな、とテリーは窓の外を見やって呟いた。
「なにが?」とあくび混じりの声。
「……湖おばけ」
 やや口ごもりながら答えたテリーの腰に腕を回して、レックは再び目を閉じたようだった。
「出たかもねえ。また気付かなかったな、それどころじゃなかったし」
「気配を読む勘が鈍ってんじゃないか? 平和ボケだろ」
 なんでそこでそんな憎たらしい言いぐさを。レックは苦笑いした。テリーの声が大きかったからだよ、とやり返そうか迷ったが、足蹴が飛んできそうなのでやめておいた。
「カーテンくらい引いときゃ良かったな」とテリー。「別におばけが出たとも思わないが、なんか気味悪いぜ」
「覗かれたかも知れない」
 テリーはフンと笑った。
「どうぞご自由に、だな」


続きます