悪の親玉をやっつけて、レイドックの王子は本来の役目を果たすべく精進する日々でした。

夢と現実とが錯綜する中で彼は王子としての記憶をあらかた失ってしまったので、そりゃもうたくさんのことを勉強し直さなければなりませんでした。それでこのところ彼は大忙しでした。――でも多忙なのはある意味では良いことでした。いろいろ余計なことを考えずに済むからです。実際、彼にとって今までの記憶と新しい環境との差異は尋常ではありませんでした。なにしろそこには如何ともしがたい価値観の違いがありましたから。ライフコッドのみんなのことが大好きだったのと同じように、彼は今ではレイドックの人々のことも愛しています。そして、村のみんなにとっての関心事はきっとレイドックじゃ相手にもされないし、一方でお城の人を興がらせる話題の大半は、ライフコッドでは馬鹿馬鹿しいと思われてしまうだろうということも理解しています。悩ましいのは、自分が本質的にいったいどっちなんだろうかということです。
ものさしの違いはそれだけではありません。彼の身分は王子だからです。これについてはまったく挙げ連ねかねるほどいろいろ思うところがあります。ついさっきも、為政者たるもの、1年後と、3年後と、10年後のことを考えよ、と王に言われたばかりです。うーんどういうことだろう。今まで彼にとって先のことといえば、1秒後か、3時間後か、せいぜい半年後くらいまでしか含まれていなかったのです。
見方を違えれば世界はこうも豹変するものか、やれやれ。



……とまあ、そんな内容の日記をレックが書いているときでした。
不意にバルコニーに面したフランス窓を、外からコンコンと叩く音がしました。彼はスウコウな思惟から形而下に引き戻されました。それからちょっと緊張して、抜き身を構えて怖い顔で勢いよくカーテンを引くと――窓の外には見慣れた青い服の男が立っています。
レックが剣を下ろして窓を開けると、久しぶり、とテリーが部屋に入ってきました。もの言いたげな顔をしたレックに、門が閉まってたから、とこともなげに相手は答えました。そりゃ夜だし門は閉まってるだろうけど。
「泥棒じゃないんだから。頼めば門番も通してくれるだろ?」
レックは咎めました。テリーの顔は、お城の誰もが知ってるし。彼は王子と一緒に世界を救った英雄なのです。
「まあ……コンバンハ、ドウモスミマセン、アリガトウ、で中に入れてくれるんだが。三つ目の門で面倒になっちまった。いちいち文句言われるしさ。次からは昼に来てくださいって」
「……次からは昼に来いよ」
「それでもう勝手に入ってやれって思って」
「もー、オレまで怒られるだろ」
「悪いね。それはともかく、腹減ったんだけど。なんか食うものない?」
「なにしに来たんだテメーは」

聞けば、夢占い師のお婆さんに用があって近くまで来て(多分ほんとの目的はお姉さんに会うことだったんでしょうけど)、それでそこには泊まりたくなかったから――なにせ食卓に酷く気味の悪いものばかり並ぶので――レイドックまで足を延ばしたということでした。
こいつめ、ごはん食べに来たのかよ。レックはちょっと呆れましたが、まだ厨房も起きている時間だったし、お願いして適当に持ってきて貰いました。レックはお相伴は遠慮しましたが、食卓を片付けた後でぶどう酒だけ飲みました。勧めてみたけどテリーは飲みませんでした。代わりに彼は、銀の器にきれいに盛られたぶどうをマントルピースの上から勝手に取ってきて食べました。

「結局、お前は元のさすらい人に戻ったのか」
相手の近況をひととおり聞き終えてから、レックは言いました。
「そうだな。肌に合ってるし」とテリーは答えました。それからちょっと考えて、「でも今では帰る場所がある」と言い足しました。
「あの人たちとは、うまくやってるの?」
「別にうまくやろうと思っちゃいないが。まぁせっかく喜んでるアネキを困らせても仕方ないから、……それなりに」
レックは微笑みました。



秋の夜は心地良く晴れていました。
テリーは一人でテラスに出て、月光の下で眠るレイドックの街を見下ろしました。なんとなくいい気分でした。王子なんてまっぴらごめんだけど、レイドック城の天守に設けられた、見晴らしのいいテラスがある王子の部屋はいくらか羨ましい気もしました。彼は昔から高いところが好きだったのです。
一方レックは部屋の中からテリーの背中を見つめていました。
「1年後と、3年後と、10年後。…」と彼は考えました。「なにもかも変わってゆく。じゃあオレたちの今はどうなるんだろう。今が不毛なんだろうか――それとも未来が?」

開いた窓から冷えた空気が入り込んできます。彼はため息をついて立ち上がり、窓際に寄って、飽きもせず夜風に吹かれているテリーに声をかけました。
「いつまでそんなとこにいるのさ、風邪引くぜ。高いとこ好きだなあ」
「まあね。あ、バカとケムリは、とか言ったらぶっとばすからな」
レックは笑いました。
「言わないから、もう中に入れよ」
テリーは部屋に入ってきました。そしてそのとき、窓際の書き物机の上に開きっぱなしになっていたレックの日記に気付きました。旅していた頃、レックの字ときたらそれは酷いものでしたが(まあテリーだって他人のことを言えた義理ではないのですが)、いま目の前にある日記のそれはずいぶん流麗に見えました。
「レック、字の練習したのか?」
「うん、させられた。王子が悪筆だとみっともないだろ、いろいろと――ってか読むなコラ!」
「読んでないさ。少ししか」と言ってテリーは目を細めました。「1年後と3年後と10年後ねえ。偉い人ってタイヘンだな」
大変だよ。…
レックはふと、ついさっきテリーの背中を見ながら考えていたことを口に出してみようかと迷いました。しかし彼が逡巡している間に、テリーがまた喋り始めました。
「オレは偉くないから、」と彼は言いました。「今についてしか考えられないな。たぶん死ぬまで、今の瞬間の積み重ねだ」
「適当が過ぎたら、いつか後悔するかもよ」
「しない。オレはいつだって自分の判断で動いてる」
「判断が正しいとは限らないだろ」
「そりゃ、間違いも多いが。でも失敗は後悔にならないだろ。後悔するのは、やったことじゃなくて、やらなかったことに対してじゃないか。……まあ王様はそうもいかないか」
言ってから、テリーはちょっと不思議そうな顔をしました。
「どうかした?お前、疲れてるんじゃねーの?」
「いや、平気。言ってみただけ。それに、飲みすぎたかも」

もう、こっちの気も知らないでさ、とレックは思いました。でもまあ、それもそうだな――秋は冬に、冬は春に。終わりと始まりの合間に、ひとしずくの涙。…
どうなるにせよ、きっとなにもかも、収まるべきところに収まるだろう。

「あーあ、今日の問題はなんか解決しちゃった。明日からは王子の自己同一性と公的人格とのせめぎ合いについて考察してみようと思う」
「好きにしろよ。……じゃあオレはそろそろ帰ろっかな。どうもごちそうさま」
テリーの言葉に、レックはわざとらしく唇を突き出しました。
「なんだ。愛想ないな、お前」
「それはもう何百回も聞いたが」
「そうじゃなくて。泊まってきゃいいのに」
テリーは目を細めました。
「つまり、食事の見返りを要求するってわけだ」
「――そんなわけないだろ、ばか!」相手の言葉を遮ってレックは思わず怒鳴りました。「変な冗談はやめろ。……っつーかお前、本気でメシ食うためだけに来たわけ?」
「そんなわけないだろ。ばか」
テリーは笑いました。



キスした相手の唇に、心なしかぶどうの匂いをかいだようにレックは思いました。
そして相手の唇に、ずいぶんアルコールの味がするようにテリーは思いました。



おしまい。





そのあとこんな感じでした、という蛇足↓


王子の寝室の広いベッドはとびきり上等でした。
テリーはレックに構わず一人でシーツの上に横になり、ころころ寝返りを打ってみました。ベッドはしっとりと沈み込むように柔らかだし、大きな羽根枕はふかふかしているし、とてもいい気持ちです。ゼイタクだなあ、と彼は思いました。それに――

ふと見ると、レックが部屋の入り口に立って楽しそうにテリーを眺めています。テリーが怪訝な顔をしたので、彼は言いました。
「いや……なんだか一人で機嫌良くやってるなと思って」
「ばっかみたいに立派なベッドだな。こんなとこに毎晩一人で寝てんのかよ」
まあね、と答えて、レックはベッドの端に座りました。ぽんぽんと靴を脱ぎ捨てて振り返ると、テリーは羽根枕に半分顔を埋めたまま妙にぼんやりしています。
「どうかした?」とレックは訊きました。
「……レックのニオイ」と、テリーは目を閉じて独り言のように呟きました。「なんか――ちょっと興奮する」
その言葉はレックにとって少なからず刺激的に響きました。
「念のために言っとくと、」と彼は言いました。「ここはお城の王子の寝室だから、よそに音は漏れません」
「それがどうした」
「どうもしないけど」
それからレックは身をかがめて相手にキスしました。



すたく息の合間に思いがけず甲声が上がって、テリーは慌てて自分の口を押さえました。そのまま窺うようにレックのほうを見るもんだから、レックはつい笑ってしまいました。
「いや、聞こえたよそりゃ。なんの恥じらいさ?」
「別に。なんか癪だし」
「へえ。自己との戦い?まぁせいぜい頑張れ」
テリーが黙って不服そうに唇を尖らせると、唆されたようにレックはその唇にキスしました。
レックにしてみればどちらでも構わないことでした。相手の夢中な声は言わずもがなだとしても、我慢して声を抑えているさまだって(テリーには悪いけど)すこぶる気をそそるし、要するに相手が楽しそうなら彼は満足なのです。――なのですが、今日はせっかく前もってお城の遮音性の優れたるを教えてやったのに、テリーが『癪だ』だなんて言うもんで、やっぱり気が変わって、どうあっても声を上げさせてやりたくなりました。それで彼は催促してみたのですが、しかし相手は顔をしかめただけでした。
「お前、さっき頑張れって言ったじゃないか」とテリーは言いました。
「言ったけど。……え?ホントに頑張るの?」
「……そういうプレイならオレは絶対イヤだからな」
「だったらさ、優しくして、ってお願いしてみてよ」
テリーはべっと舌を出して見せました。レックは笑って、それから無性に相手を愛おしく感じて抱きしめました。
「いつになく奔放じゃないか、レックのくせに」とテリーは思いました。なんでだろう?ああ、あれかな、――地の利。…

ばかばかしい、とだけ彼は口にしました。首を傾げたレックに、彼は鼻で笑って言いました。
「声が聞きたきゃ出させてみろよ」
「うん。そうする」と、レックは澄まして答えました。



いろんな因子が重積して、その日テリーはほとんど正体を失くすほどぐしゃぐしゃになってしまいました。
彼は後で少しだけ反省しました。