空をたゆたう白いお城の中から、ゆがんだ窓ガラスの向こうをなんとなく見つめている。
ヘルクラウドに来てからこっち、テリーはそんな風にして時を過ごすことが珍しくなくなった。ただじっと、なにかを待っているみたいに。
いったいなにを待ってる?明日が今日に、今日が昨日に変わってゆくのを?



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降り止まない雨はない。
それは目覚めのない睡眠がないことよりはもっと確実で、明けない夜のないことよりはいくらか不確実だが、いずれにしろ事実には相違ない。例えば悲嘆に暮れる人を思いやり(あるいは義務)から励ます必要があるとして、なにか柔らかな比喩を探した末に、照れないタチの人なら真顔で、そうでなければ茶化した口調で、口にされる言葉かもしれない。でもそれはきっとツナギの言葉にしかならない。
ああ、ない、ない、ない、そしてまた、ない、ときた。文字にして紙に書いたらずいぶん間抜けだろう。しかし今は比喩の話ではない(また「ない」だ)。だって、窓の外では現実に雨が降っている。…

そんなことをぼんやりと考えていた。
近頃、彼にはそういうところがあった。なにもする気にならないときに彼の思索は奇妙な感傷性に侵されるのだ。することがなくて暇を持て余しているときではなく、することがあろうがなかろうが、とにかくなにもする気にならないとき――夜じゃない、夜は健やかに眠るべし。なにしろ昼下がりが一番危険である。
どうかしてる、と彼自身も思う。
以前はこんなことはなかった。



広いお城の中に人間はテリーきりいない。だからといって、彼が一人ぼっちだってわけではなかった。なんとなれば、そこには人間でないものがたくさんいたのだ。たとえばケモノに似たやつ、鱗のあるやつ、不定形のやつ、無機物のやつ、それにそもそも実体のないやつまでいて、みんなそれぞれ意思をもっている――つまり、魔物。
そんなやつらの中で普通の人間がやっていけるとも思えないけれど、テリーにはどうも普通でないようなところがあったらしい。彼はどうにかこうにか、いやむしろ飄々として、日々を過ごしているように見えた。きっと彼のほうで魔物を拒まなかったからだろう。魔物にもいろんなのがいて、いったいほかの生き物と見れば襲い掛かろうとする剣呑なのもいれば、特にある種の生き物に対して(その対象は人間の場合もあるし、人間でない場合もある)凶暴になる魔物もいる。でも一方では友好的なのもいるし、それどころか人間に興味津々なやつだっていないわけじゃない。
そんなわけで、テリーは自分と親しくなりたがる魔物と気楽に仲良くなったり、牙を剥いてくる魔物と遠慮なくやり合ったりして生活していた。

お城の玉座には魔物たちの親分がいた。そいつはお城で一番偉くて一番強くて、しかもテリーにとって一番よく解らない相手だった。ほかのどの魔物よりもテリーに好意を寄せていて、しかも同時に強烈な悪意でもってテリーに接するのだ。
彼の外見はちょっとだけ人間に似ていた。だけど人間よりも遥かに大きい体躯で、しかも肌の色がぞっとするような血の赤をしていた。名前をデュランといった。



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さて、窓の外を眺めていたテリーに遣いを寄越してきたのはそのデュランだった。やってきたのはベホマスライムのベホマンだ(名前はテリーが勝手につけた。だって名無しだったんだ)。ベホマンはテリーと仲良しで、デュランのことをすごく尊敬している。彼はテリーの部屋に入ってくるなりテーブルの上の砂糖壷に興味の全てを奪われたらしく、無邪気に砂糖壷とテリーの顔との間に視線を往復させた。それでテリーはさじに砂糖をすくってベホマンに与えてやった。砂糖を舐めてしまうと、ベホマンは嬉しそうに手をぱちぱちさせて、それからようやく「こんにちは」と挨拶した。テリーの気分も少し良くなった。

「デュランさまが、」とベホマンが切り出した。テリーは急に気分が悪くなった気がした。「3時になったらサロンに来るように、だって」
「なんの用で?」とテリーは訊いた。
よく分かんないけど、とベホマンは答えた。「……なんでも、テリーと差し向かいで」
「――やり合おうってのか」
「この前みたいに3日後に『行きません』って返事をことづてたりしたら駄目だよ」とベホマンが注意した。「だいたい、3日後なら『行きません』じゃなくて『行きませんでした』じゃない。ねえ?」

フン、とテリーは鼻を鳴らした。サシでケリを着けようってんなら、誰が断るものか!
それから窓際の時計を確認しようとして――ふと彼の意識は窓外に向けられた。相変わらずの雨が、しかし先だってよりもいくぶん柔らかくぬるんで、遥かな高みより降りしきっている。
72時間。
よく降るものだ。この雨が降り始めたのはさきおとといのことで、今日の午後3時で72時間も降りっぱなしだってことになる。
テリーは時計に目をやった。あと30分で午後3時だ。…
彼は革の胴着をきちんと身に着け、きれいに磨かれた円い盾を背負い、ベッドに放り出されていた剣を無造作に腰に帯びると部屋を出て行った。



お城のうちでいっとう大きい部屋が玉座のある広間で、サロンはその隣にしつらえてある。テリーが広間に着いたとき、玉座は空っぽで、一段下がった脇に全身鎧兜のやつがひとり、主人が上座におわしますときと寸分違わぬ直立不動の姿勢をとっていた。ご苦労なこった、とテリーはこっそり考えた。彼は雷鳴の剣の鞘を払うと、大扉から玉座まで敷かれた赤絨毯の脇に並ぶ木の椅子に腰掛けて膝の上に抜身を置き、そのまま玉座の主が現れるのを待つことにした。広間の入り口から向かって右側の壁にはやけに瀟洒に装飾された黒檀の扉がひとつあって、サロンに通じている。しかしテリーは中に入ったことがないし、そもそも扉が開いているのを見たこともなかった。

長いことそのままぼんやりしていたら、不意に鎧のやつが声を掛けてきた。
「デュランさまに呼ばれたのではないのか」
テリーは内心びっくりした――なにしろ鎧のやつときたらあんまり動かないものだから、彼としてはほとんど置物みたいなもんだと認識していたのだ。
「……ああ」とテリーは平静を装った風で返事した。
「そこでなにをしているのか」
「なにも」
「主は待っておられる」

待ってるのはオレのほうだろ、とテリーが思っていると、相手は黙って黒檀の扉を指差した。
確かにサロンに来るようにと言われたことをテリーは思い出した。いや、別に忘れてたわけじゃない。狭くてこじゃれた部屋でやり合うなんて馬鹿な真似はごめんだし、広間で待ってりゃ出てくるだろうと考えていただけだ。それに――広間の脇の黒い扉が実際に開く様子がなんとなく想像できなかったのもある。
テリーは肩をすくめた。扉は扉、開いて初めて意味を持つ。…



扉の向こうはごく普通の(人間の神経で判じても)趣向にしつらえられたティールームだった――街の立派な屋敷の南側の部屋のひとつみたいな。部屋のまん中には大きな楕円の天板のテーブルと、揃えの曲げ木の椅子が並んでいて、ぴかぴかに磨かれたテーブルの上にはなにも置かれていなかった。扉からテーブルを挟んで向こう側には床まである両開きのガラス窓があって、広いテラスへ通じている。窓にかかった薄いレースのカーテンを通して天気雨のほの明るい光が射していた。窓を開ければなんだか香ばしい匂いがしそうだとテリーは思った。

上座の椅子には城の主が座っていた。
テリーは抜き身を下げたままずかずか部屋に入ってデュランの向かいの席に着くと、鞘を払ったままの剣をテーブルの上に、盾を隣の椅子に置いた。デュランはテーブルに置かれた刀身にわずか眉をひそめた。
「なんだそれは。郷里の風習か」
テリーは恐い顔で相手を睨みつけた。オレに郷里などあるものか。相手ははた承知で言っているのだ。
「あんたこそ、なんだそれは。えらく丸腰だな」
デュランはなにも答えない。テリーは剣の柄に手をかけた。
しかしそのとき扉をノックする音がして、先ほど広間にいた鎧のやつが銀の盆を持って入ってきた。盆の上には鏡のように良く映りこむ銀のポットと白い茶碗が一客、それにほかにもなにかこまごましたものが載っている。そいつはばかに優雅な所作でテリーの前にひとり分のお茶を給仕し(デュランの前にはなにも置かなかった)、主人に一礼して部屋を出て行った。テリーは初めぽかんとしていたが、すぐにおかしくてたまらなくなった――なにしろ全身鎧でお茶を淹れてるんだから。彼はエヘンと咳払いして、つい笑いそうになるのをごまかした。
ふたたび部屋に二人きりになると、デュランは身振りでテリーにお茶を勧めた。きっと5分前ならお茶なんて意地でも飲まなかったろうが、テリーはなんだかどうでもいい気になってしまい、勧められるまま細い取っ手の付いた薄い陶器の茶碗を持ち上げた。魔王に所属するしなものにしちゃずいぶん洗練されているといえたけれど、もちろんテリーにそれを見做す分別も造詣もない。そもそも彼はものの存する意味を機能的要素以外に見出すたちでもなかった。実際のところほとんど実在論者なのだ。…

茶碗が空になるまで二人とも無言だった。そしてそのあいだもテーブルの上には抜き身の雷鳴の剣が置かれたままだった。テリーから見て柄を右に刃の切っ先を左に、まるで相手と自分を隔てる鋭い線を引いたみたいに。
テリーがお茶を飲み終えるのをデュランは楽しそうに眺めていた。じいっと見られてテリーとて居心地悪くないでもなかったが、動揺するのも癪なもので、知らん顔を装ってのろのろとお茶を飲んでみせた(ただしお茶が熱かったからでもある――かなりある)。
彼が茶碗を置くとデュランが口を開いた。「ようおあがり」
テリーは肩をすくめた。なに言ってやがる。
「本気で茶を飲ませに呼んだのか?」
「午後の3時だからなあ。お前、ずいぶん重装備で来たものだな」
「そりゃベホマンが――」
「ベホマン?」
「――いや、ベホマスライムが。…」
「なるほど、ベホマスライムのベホマン」と言ってデュランは笑った。「良い名だな。ネコならネコキチ、イヌならイヌスケか」
テリーは嫌な顔をした。別に揶揄されたのに腹が立ったわけじゃない。単に魔王の感性が気に入らなかっただけだ。ちぇ、ネコならタマ、イヌならコロに決まってるだろ。
「……どうでもいいが。だいたい装備を言うなら、給仕の方がよっぽど不自然だろ。ほかに誰かいなかったのかよ。――そもそもオレは戦いに来たんだ」

デュランは目を細めた。


続きます