レックとミレーユ、それに彼女の弟がレイドックの裏通りに面したブラスリーから出てきたのは、夜もずいぶん更けた頃だった。日が暮れると、表通りよりも裏通りの方がよほど賑やかになる。この国の人々は夜が長いのだ。
 しかしこの日は、普段の陽気な喧噪とはいくらか様子が違うらしかった。

 レックは店の前の人だかりを眺めて首を傾げた。
「なにか揉めてるな」
 急に立ち止まった彼にぶつかって悪態をつきながら、テリーも人だかりを覗き込んだ。二人の若い男が大声で言い争っている。一人は大柄の髭もじゃで、もう一人はのっぽの黄色い長髪だ。歳のころ二十代半ばほどだろうか、どちらもひどい大トラだった。
 テリーは難しい表情をしているレックの脇腹を肘で小突いた。
「ほっとけよ。チンピラに関わったってロクなことないぜ」
「バカ言え、レイドックの治安が犯されるのを見過ごすわけにはいかない。……あー、テリー、悪いけど止めてきてくれない? 王子が出てって気付かれたら面倒だし」
「はァ?! そっちこそバカ言うな。勝手にしろ、オレ……とミレーユを巻き込むなよ」
「仕方ないなあ。よし、身分がばれたら走って逃げよう。テリー、お姉ちゃんの安全確保は任せたぜ」
 お前に言われるまでもねーよ、とばかりにテリーは舌打ちした。
「あんな三下相手に、ケガなんかしないわよ」とミレーユ。
 抱えていた荷物をテリーに押し付けて、レックは騒ぎの真ん中へずかずか踏み込んで行った。──彼の心配は杞憂だった。下町の酔っ払いたちとて、まさかこんな場面に公子のみまそがるとは万に一つも思わなかったろう。あるいは単に王子の顔を知らなかったのかも知れない。

「おーいやめろ、君たち!」
 レックは鷹揚に声を張り上げたが、男らは彼に目もくれなかった。いよいよ興奮してのっぽに殴りかかろうとした髭もじゃの前に飛び出すと、レックは振りかぶった男の右こぶしを片手で遮り、反対の手でもう一人を牽制した。遠巻きのギャラリーは、勇敢な青年の闖入を好奇と期待の目で見つめている。
「あらら、無鉄砲ねえ」
 ミレーユが呆れたように呟いた。
「レックの方こそ、酔っ払ってんじゃないのか」とテリー。
 レックは二人の男らを交互に見据えながら、窘めるように言った。
「落ち着け。まあ、話を、しようじゃないか」
 二人は当然のように怒りの矛先をレックに向けたが、彼の背負った見たこともないほど立派な剣に多少の勢いを削がれたようだった。
「なんだ、あんちゃん。他人の喧嘩に首突っ込むたぁ野暮じゃねーか」と髭もじゃ。
「そうだそうだ。すっこんでな」とのっぽ。
「そうもいかない。周りが迷惑してるぜ。君たち、なにがあったんだ?」
 男らは脅すようにうなったが、レックはへいちゃらだ。
「テメェにゃ関係ないだろ。ブッ飛ばすぞ」
「そうだそうだ。ブッ殺すぞ」
「こっちだって、本当は知りたかないよ。しかし暴力沙汰は──ああ、もう!」
 ギャラリーがにわかに色めき立った。のっぽが短刀を抜いたからだ。
 だがレックは眉をひそめただけで、すぐに刃物を持つ手をつま先で強く蹴ったらば、短刀はのっぽの手から高く弾かれてギャラリーの方へくるくると跳ね飛んだ。不意を突かれたギャラリーからキャア、と悲鳴が上がったが、ちょうど落下地点あたりにいた青い服の若者──テリーが手を伸ばしてパシッと掴み取ってしまった(オオー、と周囲から賞賛の声)。
「落ち着けったら!」と、レックは先ほどより強い調子で言った。「君らのあいだに見解の相違があるなら、どうにか和解案を探ろうじゃないか。都合良くお目付役の聴衆も大勢いるぜ。やあ、ところで名前は?」
 髭の男は、渋々といった様子ながらもいくらか平静を取り戻したらしい。
「チェッ、なんだテメーは。このイカサマ野郎が(言いながら彼は、のっぽを顎でしゃくった)──前々から気に食わなかったんだが、今日はついにやらかしやがったんで、こっちも頭に来ちまったんだ」
「気に食わねぇのはテメーの方だ、卑怯者! 今度ばかりはタダじゃおかねえ!」
「おお、やってみろ!」
「やめ、やめ! やってみるな!」
 再びつかみ合いを始めた二人の間に、レックは慌てて割り込んだ。左こめかみに飛んできた髭もじゃのげんこつ強打を指先で受け流すと(観衆は大喜びだ)、これでお仕舞いとばかりに手をぱんぱんと叩いて見せた。
「なんだ、賭け事でもしてたのか?我が国では──いや、まあいい。それより君たち、知り合い同士だったのか。なんにせよ、名乗れよ」
「──えらい馬鹿力だな、あんちゃん!」と、自身の渾身の一撃を軽くいなした若者にある種の敬意を抱いた様子で、髭もじゃががなった。「オレはガバチョだ」
 のっぽは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ケッ、オレ様の名を知らねぇとは、とんだ坊ちゃんだな。オレは、キョンキョン」
 傍観していたテリーは無遠慮に噴き出した。ミレーユは咎めるように弟を見て、彼らの責任じゃないわ、と言った。

「ガバチョとキョンキョンか」とレックは真顔で反復した。「よろしい、オレはリコルダリ。言い分を聞こう。まずはガバチョから、どうぞ」
「青二才が偉そうに。……まあいい、話はこうだ。オレには妹がいるんだ。これがまたオレに似ずにスミレのようにかわいいんだがな、それをよりによって、この野郎がかどわかしやがった!」
「なんだと?!」
「待てやリコルダリ、なに突然いきりたってやがる」とキョンキョン。「そもそもビオラちゃんとは長い付き合いなんだ。それを、いよいよ結婚の話が出るまで気付きもしないテメェなんざ、兄を名乗る資格もねえクソ野郎だ、こら」
「なにを! こそこそ隠れてビオラに付きまといやがって。詐欺師め、純真なあの子をだまくらかしてるのは分かってんだ!」
 レックはうんざりしたようにため息をついた。
「……なんか、思ってた以上にくっだらない痴話喧嘩だったな。首突っ込んで損しちゃった。おいキョンキョン、兄貴に認めてもらえるように、せいぜい精進しろよ」
「そんな簡単な話なら、オレだって見境なくなったりしねえ。許せんのは、ガバチョの野郎、オレのアネキに手を出しやがったのよ。アネキは王宮に仕官してんだ、しかも美人だ。いくらでも良い縁談はある。ガキのころからずっと苦労してきてよ、やっと幸せになってくれるかと思ってたとこをだ。よりによって、なんでこんな裏町のチンピラに!」
「……ほんとに下らないわねえ」とミレーユ。「あらテリー、眉間にシワが寄ってるわ」
「汚い野郎だ、ガバチョとかいうやつ」とテリーはぶつくさ言った。

「王宮に? そりゃ出世したな。仕事はなにしてるの?」とレックがキョンキョンに訊ねた。
「ジーリオっつって、レイドック城の小間使いさ。なんと毎朝、王子様のお部屋まで茶を運んでるらしい。そのうちお手がつくに違ェねえとオレは踏んでるね」
「つかないよ」とレックは即答した。「安心しろ、絶対にない。──ええと、つまり、ガバチョの妹はキョンキョンと、キョンキョンの姉はガバチョと、恋人同士だってわけか」
 二人が口々に否定やら肯定やらまくし立てるのを、レックはなんとか黙らせた。
「なにを怒ることがある? それぞれ結婚したらば、四人みんな家族じゃないか。妹やら姉やらが気になるなら、なおさらいつでも身近で幸せにしてるか確認できるぜ。万々歳だ」
 ギャラリーから拍手と掛け声が飛んだ。レックは澄まし顔で片手を上げて応えてみせた。
「慣れてるな、……なんか腹立つが」とテリーが呟いた。
「さすがじゃない。王子様だけあるわ」とミレーユはにこにこして答えた。「だけどジーリオは好みじゃないのね」
「キョンキョンの姉だろ。歳上過ぎるんじゃないか」
「余計なお世話よ」

「だいたい、ビオラとジーリオのほうじゃどうなんだ」とレック。「君らだけで喧嘩してたって埒が開かない。彼女たちも交えて、ちゃんと仲直りしろよ、早々に」
「……ふん、確かにビオラからじかに話を聞いてねえのは、良くなかったな」とガバチョが顔をしかめた。
「オレも、アネキとはしばらく会ってなかった」とキョンキョン。「なんせ、さっきビオラちゃんと一杯やってたら、たまたま同じ店でそいつがアネキと逢い引きしてたんだからな」
「なんだ、彼女らもいるのか?じゃあ呼べよ。──いや待て、呼ぶな。ジーリオはまずい」
 しかし騒ぎ好きなギャラリーは、すでに店から二人を連れ出して来ていた。店の前で二人は、困ったように顔を見合わせている。かっとなりやすい恋人が自分たちを置いて(危ないから出てくるなと言い残して)喧嘩腰で店から飛び出したあと、せめて兄弟の代わりに謝罪でもしようかと歩み寄ってみた結果、図らずも意気投合してしまったのだ。苦悩を頒つ二人に共感の萌ずるは早いらしい。…
 ガバチョはキョンキョンの肩を叩いた。
「オレは認めた訳じゃねえけどよ、ビオラがそれでいいってんなら、テメェのことはこれから見定めてくことにしてやらぁ」
「そりゃ、こっちのセリフだ。なぁ、リコルダリのあんちゃんよ! ……んん? あいつどこ行った?」
 あんなに偉そうに場を取り仕切っていた青い髪の男の姿は、振り返ればなぜかどこにもない。
 二人は首を傾げたが、通りすがりの若者のことなど、即座に興味の対象から外れてしまった──なにしろ恋人が泣き笑いで駆けてきたのだから。


「やあ、危なかったな。世間は狭い」
 人通りのほとんどない表通りを歩きながら、レックは楽しそうに笑った。
「ご苦労なこった、リコルダリ」とテリーが冷やかした。「偽名なんか用意してたのか」
「まあ、名乗るに障りあるときのためにね。本名をただ昔のことばで言い換えただけさ。……おいお前、なんだその顔。さてはオレの本名忘れてんだろ」
 テリーはわざとらしく手の平を上にして肩をすくめてみせた。
「あいつら、丸く収まるといいけど」と、テリーの額を指で弾きながらレックは言った。
「……心底どうでもいいぜ。お人よしだな、王子様は」と、レックを殴り返しながらテリーが言った。
 二人の少し後ろを歩いていたミレーユがふと立ち止まった。空を見上げて、ふふっと笑う。
「大丈夫。全部うまくいくわ」




おしまい。




蛇足…
レックが偽名を名乗る場面、の没案。


take1

「ガバチョとキョンキョンか」とレックは真顔で反復した。「よろしい、言い分を聞こう。まずはガバチョから、どうぞ」
「青二才が、偉そうに。話を始める前に、テメェこそ名乗りやがれ」
「オレ?オレは、テリー」
ガバチョは鼻を鳴らした。
「テリーか。よし、覚えとこう」
「あのばか、なめやがって」と(ホンモノの)テリーは呻いた。
「覚えられちゃったわよ、ガバチョに」とミレーユが笑った。

take2

「青二才が、偉そうに。話を始める前に、テメェこそ名乗りやがれ」
「オレ?……オレは、えーと、ファル、」
「ファル?」
「ファルシオン。…」
「……なんだか、馬みてぇな名だな。せっかく勇ましい兄ちゃんなのにな」
ギャラリーがどっと笑った。
「そりゃ、馬の名だからな」とテリー。
「馬の名前としては、とっても勇ましいけれどね」と、笑いながらミレーユが答えた。