I wish I were a bird.

──窓の外を見ればそこにあるので、空を写真に納めておく必要はないのです




 テリーは電話に出ないしメールも返してこないので、レックは彼に会いたくなったら連絡もなしに一人暮らしの彼のアパートに行くことにしていた。いつも日が暮れてから行く。夜ならテリーはたいてい家にいるからだ。テリーは相手がどんな時間にこようともまるで気にしなかった。彼は部屋で勉強するか本を読むか、さもなくば犬のポールと遊ぶか、カメのリンゴとドランゴ(小さいほうがリンゴ、大きいほうがドランゴだ)の世話をするかしていた。

 さて、ある夜レックが彼の家に遊びに行くと、部屋の主はベッドに寝転んで勉強しているところだった。テリーはいつもベッドの上に大量の本やらノートやらを広げて、ごろごろしながら勉強する(それで眠たくなったらポールをベッドに上げて、本を枕にしてそのまま寝てしまう)。

 レックは勝手に鍵を開けて部屋に上がりこんだのだが、いつものことながらテリーは顔も上げなかった。わざわざ立ってドアを開けに行くのが面倒だから、という理由でテリーはレックに合鍵を作らせたのだ。彼は農学部で動物のお医者さんの勉強をしていて、驚くべき勤勉家だ──少なく見積もっても自分の十倍は勉強しているに違いない、とレックは思っている。

「遅くまでかかりそう?」とレックは訊いた。

「いいや」とテリーは答えた。

 それでレックは待つことにした。時間をつぶすのはたやすいことだ。誰かがそばで音楽を聴こうがテレビを見ようがゲームをしようが、テリーはまるで平気だったからだ。彼が平気でなかったのはたった一度だけ、レックがコントのビデオを見てげらげら笑い続けたときだけだった(その日、レックは怒ったテリーに叩き出されてしまった)。

 果たして二時間もしないうちに、テリーはペンを投げ捨てた。彼は散らかしたたくさんの本を、ページを開いたままどんどん重ねて積み上げ、一番上に筆箱と文鎮を乗せると、よいしょと抱えて床に置いた。いい加減に積み上げたもので、置いた途端に崩れてしまったが、テリーは知らん顔だった。

「お待たせ。もう九時か。メシがまだなんだが」

 ようやく手の空いた飼い主に駆け寄ってきたポールの頭を撫でながらテリーは言った。

「あらら、かわいそうに。朝はやらなかったの?」

「いやポールじゃない、オレがまだなんだよ。お前は?」

「食べてきた」

 なんだ、とテリーは呟いた。レックがまだなら、なにか作ってもらおうと思ったのだった。それがあからさまに顔に出たので、レックは苦笑いして「いいよ、 作ったげるよ」と言った。

 テリーはまるで料理ができない。作る意志はあるものの、からきしセンスがない。彼の作ったものはいつだって、辛すぎるか甘すぎるか、濃すぎるか薄すぎるか、固すぎるか柔らかすぎるか、多すぎるか少なすぎるかするのであって、中庸ということはなかった。

「なにがいい?」

「ええと、オムライス。──ああだめだ、卵がない。というかコメもなかったな」

「なに食って生きてんだお前……ほかに主食的なものないの?」

「どこかに小麦粉があるぜ。あとそうめん」

「じゃあそうめん茹でよう」

「……昨日も一昨日もそうめん食ったんだが」

「……今日もそうめん食うんだ」




 レックはたいへん裕福な家庭の育ちだったが、一方のテリーはみなしごだった。

 本人曰く、学業関係の必要経費はいろいろテツヅキすればまあなんとかなる、とのことだが、それにしても経済的にずいぶん苦労しているのはレックの目にも明らかだった。なにしろテリーは食べ物で釣るととたんに機嫌が良くなるのだ。

 しかし彼にはどうも妙なところがあった。

 彼は週末の夜だけアルバイトをしているようだったが、仕事の内容についてはレックがいくら話を向けても明かさなかった。いったい、そんな少しきりの労働で都会の生活費をまかなえるものだろうかとレックはいぶかしんだ。

 テリーの持ち物もまた奇妙だった。そもそもレックが初めて彼と会った日──出会い頭にコーヒーをかけてしまって、「洗って返すから」と預かったシャツがランバンだった。それでそのとき、レックは相手のことをずいぶん衣装に金を掛けるヤツだなと思ったのだ。しかし実のところテリーはまるで金持ちではなかったし、だいたい普段はかなりいい加減な服ばかり着ていた。そうかと思えばマッキントッシュのコートを羽織ったりしているのだった。

「いいコート着てるなあ」

 不思議に思ってレックは訊いた。

「もらいもの」

 テリーは気もなさそうに答えた。

 そんなことがしばしばあった。テリーには服の好きな友人がいるのだろう、とレックは考えた。




 さて、ある日レックがテリーの部屋に遊びに行くと、窓際に真新しいヤコブセンのたまごチェアが置いてあった。さすがにレックは仰天して言葉を失ってしまった。

「あの椅子、ポールが気に入ってんだよ」

 テリーは興味なさげに言った。確かに彼の黒いレトリバーが赤い座面で丸まって眠っている。

「どうしたんだアレ? どこで買ったのさ」

「コン……なんだっけな、コンとかなんとかいったんだけど」

 ……コンランショップ? じゃあオリジナルじゃないか。しかもじゃあ本人は良く分かっていないらしい!

 レックがあからさまに怪訝な表情を浮かべたので、テリーは困った顔をした。それでももしテリーが黙っていたなら、それきりレックは追求しなかっただろう。しかしテリーが「買ったというか、買ってもらったんだ」と言い足したもんで、レックは俄然、詮索してみる気になった。

「あんな高い椅子、誰が買ってくれたの」

「知り合いの──ええと、オッサン」

「なんだそりゃ。どういう知り合いなんだ」

「バイト先のオーナー」

「いつも週末にやってるバイト?」

 そう、とテリーは頷いた。ますます意味が解らない。あの椅子ひとつで、何か月分かの賃金になっちまうんじゃなかろうか。モノに頓着しないテリーに、なにを思ってこんな贈り物をするんだ?

「オーナーって何者だよ。えらい気に入られてんだな。……ちょっと退いてね」とレック(最後の一言は椅子に陣取っていたポールに向けた言葉だ)。

 頭のいいポールが彼の意図を察して椅子からぴょんと降りると、レックは真っ赤なヤコブセンに腰掛けた。エッグチェアの名のとおり、背もたれが卵の殻みたいに丸くって包み込まれて、周囲と隔絶された心持ちになる。それにも関わらず、赤い色のせいだろうか、なんだか気分がざわざわして落ち着く感じはしない。妙な椅子だ。モダンなホテルのロビーに置いてあったなら、そんな違和感は覚えないだろう。そう、テリーの部屋にあるから妙なんだ。

 ──ふと、この椅子をテリーに与えたオッサンとやらは、テリーの本質を自分よりずっとよく解っているのかもしれないとレックは思った。一種の演出なんだろうか。ものの美しさを知っていて、風流で、しかも悪趣味な。

 卵のなかみの気分、と彼は呟いた。






3に続きます